2018年3月5日月曜日

病理の話(176) あるなしだけでは語れない

「ちょっとの血液とか、尿とかで、体の中に隠れているがんが見つかるシステムが開発されてるんだって。すごくいいよね。」

「もしそんなのが開発されたら、あんなにいっぱい検査しなくてすむもんね。」

「そうだね。」



などという会話を聞いていると、半分そうだけど半分ちがうかもなあ、と思う。




「がんのあるなし」がわかることは、インパクトが大きい。

一度がんにかかった人が、そのがんを治して元気に生きている場合、自己紹介として「がんサバイバーです」と名乗ることがある。かっこいい言葉ではあるが、それにしても「がん」ということばは本当に、消えようが抑え込んでいようが、その人の人生を大きく左右する呪印なのだよなあ、と思わされる。

そのことをわかった上であえて書くけれど。

患者の生命に具体的に影響するのは、「がんがあるかないか」ではない。

「がんがどこに、どれくらいあって、どのようにふるまっているか」のほうだ。

台所に包丁を持っているからといってその家で殺人が起こるとは限らない。

その包丁を誰が手にしてどう扱っているかをみきわめないと意味がない。




たとえば甲状腺がんというがんは、「がん」と名前がついているからにはいずれ大きくなって転移したり周りにしみこんだりする。しかしこの「いずれ」がくせものである。

かなりの高確率で、「いずれ」が来るまでが異常に長い。

仮にこの「いずれ」が5年だったとしよう。5年で大きくなって生命の危機が訪れますよ。これは大変なことだ。すぐに治療をして、未然に死を防ぎたいと思う。

……しかし、実際には、「いずれ」は50年だったり100年だったり、ときには200年だったりする。

「このがんは200年かけて人の命を奪います」。

200年あったらほかの病気や老衰で先に死んでしまうだろう。

そんな「がん」を見つけても、現代の医療でできることは少ない。

「予防的に採ってしまえば安心ではないか」という人もいるかもしれないが、患者の首に傷をつけて、役に立つ臓器の一部を失うことを、そう簡単に決めてしまってよいものだろうか。




「ほうっておくと死を招く病気や、ほうっておくと自分がすこやかに暮らせなくなるような病気を、自分の具合が悪くなる前にみつけて、治したい」というのは、多くの人間の願いであると思う。

甲状腺がんの大部分は、死なないし、暮らしも変わらないし、具合も悪くならない。しかし、「がん」という言葉には強い呪いがかかっているから、「がんが見つかりましたよ」と言われると、それが「命に影響する程度」に関わらず、治したいと願ってしまう。それは無理もない。

現代に生きるぼくら人間は、「がんのあるなし」にばかり興味を向けすぎている。そういう文学を積み立ててきてしまった。そういう文脈に慣れすぎてしまった。




ありとあらゆる病気は「多様」である。特に「がん」はとてもバリエーションが多い。

早期発見することで、早期に治療を開始でき、その後の患者の人生をよりハッピーにできるがんがある。

一方で、早期に見つけても患者に何もメリットがないがんも、確かにある。

この違いを見極めることこそが大切だし、その傾向を知ってふるまわなければいけない。




血液や尿などで、がんのあるなしを判定できるシステムというのは実際役に立つと思う。何はなくともまずは「あるなし」だという考え方はある。このシステムで見つかるがんの中には、一刻も早く見つけることで患者がメリットを得られるものも多くあるだろう。

だから、冒頭の会話、

「ちょっとの血液とか、尿とかで、体の中に隠れているがんが見つかるシステムが開発されてるんだって。すごくいいよね。」

「もしそんなのが開発されたら、あんなにいっぱい検査しなくてすむもんね。」

「そうだね。」

の、1行目はぼくも大賛成だ。


しかし、2行目は、ちょっと違うかもな、と思う。がんが見つかった瞬間から、今度はそのがんが「どういうがんなのか」を調べなければいけない。

見つければ楽になる、幸せになるというものではないのだ。見つけたくなるのは人情だけれど……。