「クリエイティブな人の書いたもの」を、積極的に読んでみようと思った。
そしたら、集まったものは、「書くことやしゃべることが得意な人の書いた、クリエイション論」だった。
前者と後者は微妙に違う。
「クリエイトすることを本業としており、なおかつ情報発信も得意な人」のいうことはとてもおもしろい。
一方で、
「クリエイトする人の側にいて、情報発信を担当する人」のいうことも、とてもおもしろい。
両方ともおもしろくてサクサクと読んでしまうので、両者の違いに気づかないまま、読み進めてしまう。
気がついたらぼくは「情報発信が得意な人の書くクリエイション論」ばかりを読んでいたように思う。
それが悪いわけではなかろう。
けれども、近頃、「クリエイター本人がボクトツに書いた本」を狙って読みたいと思うようになった。
いや、ライターが正しいインタビューを行ってクリエイションの姿をわかりやすく伝えた記事が嫌いだというわけじゃない。
そういう意味じゃない。
むしろ好きだ。
けれどもぼくは、無意識に毎日ネットでライターの書いたものを読んでおり、そこはもう「足りている」と感じる。
ある世界に光を当てると、輪郭、色調、あるいはそこに住む人の表情がくっきりと目に残るだろう。
けれども、強調や省略をされていない陰や影をみようと思ったら、誰かにストロボを焚いてもらってばかりではだめだと思う。
息をひそめて暗がりを覗き込み、次第に目を暗順応させて、呼吸するように眺めないと、陰影はみえてこないのではないか。
たとえば今読んでいる本は、表紙にまったく集客能力がない。インスタ映えしない。目を引くフレーズがない。最初の数行を読んだだけで「あっ、この先もぜひ読もう」と思わせるような誘因力がない。分厚い。写真が少ない。フォントがやさしくない。
ネットライターがこんな本を出したら、たぶんその後仕事はこないだろう。
商業的にバズる要素が皆無と思えるこの本。
著者は、どこで巡り会ったかはしらないが営利企業に勤める編集者に出会い、この内容を後世に残すべきだと説得されたのだろうか。あるいは、今自分が取り組んでいる内容を形に残したいと強く欲したのは著者自身だったかもしれない。
いずれにしてもそこには、誰かの「出版して誰かに読ませたい」という欲があったはずだ。
その欲が、どこから来るのかを探りながら読み進める。
表現がわかりづらい文章だな、と思ったら、その奥には「著者にだけ見えていて、まだうまく言語化できていないような風景があるのだな」と理解する。
冗長だな、と思ったら、「サムネイルではなく全体像を丁寧に拾わないと見えてこないものがあると考えているのだな」と斟酌する。
卑近な例えや美しい表現が出てこないならば、「内容の骨子だけで興奮できるだけの何かを著者は感じているのだ」と腕を組む。
現代のぼくらは、ネットライターがわかりやすく見やすく楽しく揃えてくれるビュッフェを日替わりでプレートに盛り、脳に養分を入れていく。
この効率、効能、捨てがたい。もはや昔には戻れない。食べ放題である。まず満腹になるまで食べることはないが。
いまさらモンハン的こんがり肉にかぶりつくような情報収集はできない。だいいち年を取れば咀嚼だって弱くなっている。
……と、書いてはみたものの。
ぼくは今、人間の脳の……「脳のアゴの力」を、過小評価している気がしている。
小中高大社会人、人間がずーっと勉強を続けていくのはなぜだろう?
ぼくは「脳のアゴ」をもう少し信じてやってもいいのではないか?
なお最後にちょっとしたどんでん返しを書いておくが、ぼくにとって、ネットライターの仕事はクリエイティブそのものである。
「彼らが専門家に変わって何かを伝えた記事」があったとき、ぼくはその記事の内容そのものよりも、「この内容をどのようにわかりやすく加工したか」というライターの技術やセンスのほうに興味がある。
実際、ビュッフェばかり食っているとありがたみはなくなっていく。それは正直そうだ。けれども、ビュッフェを維持するシェフたちがスゴ腕であること、そこに料理とかサービスの本質が見え隠れしていることの方に、ビュッフェの味よりもむしろ大きな興味をかきたてられている。