祖母が亡くなったときの話をずっと書いていた。
40分で20000字ほど書いた。そして先ほど消した。一度も保存しなかったので、それっきりとなった。
どうもまとめきれなかった。なんというか、書いていて、伝えられる自信が何一つ湧いてこなかった。
自分の中で「書いておこうかな」と思ったから書いたという「だけ」の文章だった。
「背負っているものを吐き出したら、なにかの作品になるかな」と、思っていた。
でもいざ書いてみるとだめだ。できばえは三流だった。
別に今まで、一流の文章を書いた記憶などないが、普段のブログの文章が二流だとすると、そこまでも達していなかったということである。
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「背負っているものを文章にすると、さぞかし重厚なものが書けるだろう」という錯覚。
ときどき陥る。
「陥る」ということばが思わず指先から放たれた。うん、そうだな、脊髄が反射で選んだ語句ではあるけれども適切なセレクションである。
「背負ったものを書く」というのは陥穽だ。
書き手だけが深く文章に沈んでいく。掴んで離さない文章、などというが、掴むべき獲物は読者である。
自分の胸を掴みながら、自分だけが穴にはまりこんでしまってはいけない。
蟻地獄が自分の掘った穴に取り込まれて死んでしまうのに似ている。
ぼくの書いた文章は、そういうものだった。
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自分の心の奥底からわき出てくるなにものかをあらわせば、それが芸術になる、とうそぶく人があちこちにいる。美術家。音楽家。小説家。
自分発の何者かに突き動かされて、それをただ筆にのせたり、コードにのせたり、キータッチしただけなのだ、と彼らはいう。
確かに彼らの主観はそうなのかもしれない。少なくとも対外的にはそういうことにしている、というケースもあるだろう。
自覚があるかないかは知らないが、彼らのクビから肩、腕のあたりには、ぼくが持っていないフィルターのようなものがある。
心から手の先に情念が辿り着くまでの間に、このフィルターを通過することで、情念が見る人に刺さりやすいかたちに整形される。
そんなフィルターを持っていないぼくが、彼らのマネをしてただ背負ったものを発しても、それは蟻地獄の自罰とかわらない。
技術なき情念は届かないのだ。
一度情念を吐き出したPCモニタを眺めて、再度飲み込む。反芻をする。
不格好な情念を幾度もかむ。
もとより噛みにくいしろものだ。何度も噛んでいるうちに味がなくなっていく。
ぼくは祖母の死に強い後悔がある。5年ほど経った今もなかなか色褪せず、また書くことができないでいる。味のしない肉を飲むときの、喉が抵抗する感触をずっと自覚している。