生命を都市に例えはじめると、ほんとうに、スミのスミまで例えきることができるので、ああこれはもうすなわち、都市とは生命なのだなあと思う。
ぼくは都市を題材としたSF小説とか詩とかが好きだ。たぶんその理由は都市というものが生命と同じくらい「見通せない」ものだからだ。
都市を拡大しよう。そこには多くの人がさまざまな仕事をしながら暮らしている。売るもの、買うものは刻一刻と入れ替わる。建てる、保つ、壊してまた建てる。流通、物流、倉庫もあれば配達人もいる。3丁目の角から2軒目のドラッグストアに入ってみたらそこにはお腹の大きくなったバイトさんがレジ業務にいそしんでいたりする。
これらひとつひとつの「要素」を細かく検証していくことはできるのだが、ミクロの要素を積み重ねても決してマクロのダイナミズムは見えてこない。都市に住む人々の暮らしをとことん解析したところで、都市全体がよくなっているのか悪くなっているのかを判断することはできない。「都市とは決して見通せないものだ」というのはそういう意味であり、ぼくはこの話はそのまま生命にも当てはまると思っている。
あなたは市長だ。都市が抱えている問題を解決しなければならない。まず、都市の犯罪を減らそう。どうすればよいか? 警察官をひとり増やしたくらいで犯罪の総数はおそらく減らない。もちろん、増やした警官はまたひとりの人間であるから、そこには新たな暮らしが生まれ、生産と消費と、遊興と義務とがわき出してくる。警官をひとり増員することでどこかに何かは起こる、良くも悪くもだ、しかしそれが都市全体をくまなく解決することには、おそらく、めったに、ならない。
だったら警察署をひとつ建てればどうか。うん、管轄地域の再構築が起こって、犯罪抑止が期待できる地区がいくつか生まれるだろう。しかし一方で、都市の暗部の密度は今よりも濃くなるかもしれない。
警察署を複数建てても問題は解決しきらないだろう。
そもそも住人をすべて警察官にしてしまえばどうか?
それはそれで都市の機能が破綻する。
それに、たとえば、生身の人間による犯罪を多少減らせたとしても、今度はネット犯罪が横行するかもしれない。
視点を変えよう。たとえば、道をきれいに掃除して花を植える。一見、犯罪抑止に関係のなさそうな、美観を保ち清潔を維持することが、めぐりめぐって周囲に暮らす人々の目を肥えさせ、微笑みを用いた相互監視の関係が成り立って、あるいは犯罪も減る……こともあるだろう。まあ、こんなことで防げない犯罪もあるだろうが、かかるコストと得られるメリットを考えると、花を植えたり人を笑顔にしたりすることはやっておいてもよいかもしれないな。
おわかりだろうが、ぼくは今、都市と犯罪の例えをもちいて、免疫と疾病の関係を語っている。
サプリメントを1個飲んだだけで、すべての病気を劇的に予防できるなんてことはありえない。薬というのはあくまで「問題が明確な部分にピンポイントでぶつける特殊部隊」である。それが悪いというわけではない。使い処が肝心だということだ。
世の中には無数の犯罪者がいる。ぼくらが抑止したいのは単一の犯罪ではない。だったら、どうするのがよいか?
まず防げる犯罪は防ごうじゃないか。特定の犯罪にピンポイントで効果があり、コストもさほどかからず期待値の大きい政策は導入する価値がある。ひとまず、犯罪との関連が高そうな麻薬とか重火器の類いは法律で規制しておいて損はない。「爆弾がなくても包丁で人は殺せるだろう」って? それはそうだけど、爆弾を規制すること自体は少なくとも一部の重犯罪の抑止に一定の効果があるだろう。麻疹ワクチンや、HPVワクチンというのはこれにあたる。
その上で、ワクチンのような「特殊部隊」だけに頼るのではなく、都市全体を明るく健全に回す努力が必要だ。都市という「複雑系」の中によどみが生じないようにする。流通や情報交換が常に勢いよく動いていること。停滞は犯罪の温床だ。
多くの医療者が「医学的に正しい健康法だ」と言っているのは、運動をすること、いろいろなものを食べること、さまざまな刺激に触れること、常に微笑みをもって自分の体を眺めていること。これらは特殊部隊ほどの派手さがなく、ライフハックとしても地味で、なんだかダマされたような気分になってしまうのだが……。すべては生命活動を「停滞させない」ための、地道で効果的なやりかたなのである。
ぼくら生命を運用する側の人間は、生命という都市を司る法を知り、その都市に愛着とアイディアをもって常にゆるやかに介入する「市長」でなければならない。
そうだぼくはシムシティがとても好きだった。たぶんこのブログにも同じことを2度ほど書いている。ただし毎回違う表現を混ぜて、情報が新陳代謝するのを留めないように気をつけているはずだ。動き続けることこそが都市の要であり生命の要でもあるからだ。