しちめんどうくさいことを書いていたのだが消すことにした。
具体的には、ええと、「敵を設定して毎日を暮らすのやめたほうがいいよ。それ、エネルギー効率悪いし。気持ちよくなっちゃうのはよくわかるけど」という内容を、とても遠回しに書いていた。
しかし書き終わってから読み直してみると、
”「この記事にピンとくる相手」を揶揄して攻撃する記事”
になっていた。「いちいち敵を設定するのやめなよ」という武器を振り回して、「敵」を殴っている。
うーん、これでは遠回しな切腹だ、と思った。
ままならないなあ。
「闘争と逃走」という有名なことばがある。生理学を学ぶときに、「人間の体の中には敵と戦うとき(闘争)、あるいは敵から逃げるとき(逃走)に発動するスイッチがある」という文脈で用いられる。おきまりのフレーズだ。
ぼくらの体は、ときおり、交感神経系が活性化し、いわゆるアクセル系のホルモンがばんばん出た状態になる。俗に「アドレナリン出るわwww」などというだろう。あれだ。ただし実際に出るのはアドレナリンだけではない。副腎皮質ホルモンも髄質ホルモンも、甲状腺ホルモンも、下垂体ホルモンも、膵臓とか消化管などありとあらゆる臓器から出るホルモンが、闘争と逃走に備えて足並みを揃え、体を臨戦態勢にもっていく。
臨戦態勢。
心臓が早鐘のように打ち、汗をかき、筋肉はより力強く、五感はより研ぎ澄まされた状態になる。
逆に栄養の消化とか排泄のような「今やんなくてもよくね?」みたいな機能はすごくおとなしくなる。
で、この状態が、どうも、「きもちいい」らしいんだな。ある種の快感を連れてくるように思う。
ホルモンや神経ごときに「うまくのせられて、きもちよがっている」自分をちょっぴり情けなく思うこともあるが、これすなわち本能であり、なかなかあらがえない。
さて、自分の今の行動が、闘争と逃走のいずれかの文脈を帯びている場合。
いかなる大義名分があって行動していようとも、実は「自分がきもちよくなるため」という隠れたモチベーションがありはしないだろうか、ということを考える。
まあ自分がきもちよくなることを目指して行動すること自体は悪くもなんともないんだけれども。
ちょっと、そういう自覚をしてもいいかなあ、と思ったりする。
大義名分というのはたいていの場合、小さくちょっと恥ずかしい動機を覆い隠すために掲げられる。少なくともぼくは、日頃の自らの行動原理が、それほどかっこよくしびれる理論で構築されているとは思えない。矮小な、卑近な、あるいは快感に根っこを生やした、ちょっとアレなモチベーションで動いているのだろうな、と思っている。それ以上でも以下でもない話ではあるが、うーん、ま、自戒してあまり偉そうなことをいわないようにやっていきたい。
本能に逆らうことはできない。苦しくも厳しい目標であることは承知の上だ。