いろんな人がいる、と知ることはとてもよいことなのだ。
自分と違う考えを持つ人の生い立ちに思いをはせよう、そこに至るまでに誰に影響を受けてきたのか、どんな楽しいことがあり悲しいことがあったのかと、想像してみよう。
……そんなの、とてもじゃないけど想像しきれない。想像もつかないだけの、「いろんな」人がいる。絶対に理解しきれない。ぼくはそういうニュアンスで、「いろんな人がいるんだよなあ」と知った。
人の数だけ人生があるし、人生の数の何億倍ものできごとが、人それぞれに違ったかたちで降りそそぐ。
それらをぜんぶ理解して「相手の考えに完全によりそう」なんてことはできない。そのことを知っているかいないかで、だいぶ話が違う気がする。
相手が自分に妙な怒りを持っていたりすると、自分に何か悪いことがあったのだろうかという懸念と、もうひとつ、自分とこの人とはおそらく立っている場所とポーズが全く違うのだろうなという諦念を、右手と左手に持った状態にする。
片手だけで対処しないほうがいい。「いろんな人がいる」と知っていることが大事であり、かつ、「いろんな人がいるからしょうがない」とあきらめきってしまってもいけないのだと思う。
病気と人生とを相手に働いている。
たまにこういう人に会う、「病理医は直接患者に会わないし、人を診ずに病だけを診ている、そんなのは医者とはいえない」。
ああ、そういう考え方をする人もいるだろうなあ、と半ば納得してしまう。
ぼくは、「人をみている」と宣言する人はいったい何をみているのだろうと考える。しかし、考え始めたところで、「どこまでわかるものかなあ」と、少しだけあきらめてもいる。
病気をみて事実を伝える。その事実の受け取り方は、人によって異なる。同じがんという病気をどう捉えるかは、ほんとうに人によってさまざまに違う。
「病」という光は、「人」という気まぐれなプリズムによって、常に違う形に偏光させられ、患者を彩っている。
ぼくは、形も機能も効率も偶然もさまざまに異なるプリズムを仕事相手とせず、そのプリズムに入っていく光の正体を暴く仕事をしているのだと思う。
だから、病理の話のときには、光をひたすら科学的に解析してみたいし、病理以外の話をするときには、普段あえて診ないようにしているプリズムのことが気になってしかたがないのだ。