2018年3月19日月曜日

病理の話(181) 雲とかミョウバンの結晶も増えることは増えるわけで

生命というのは「静的な存在」ではなく「動的な状態」である。

石がただそこに落ちている、山がただそこにそびえ立っている、死んだ獣の骨が落ちている。これらをぼくらは生命とは呼ばない。

生命は、常に外部から栄養を取り込み、内部で循環させ、細胞を生まれ変わらせ、いらないものを捨てて、ぐるぐる新陳代謝を繰り返す存在だ。

石は栄養摂取をしない。だから生命ではない。



けれど山はどうだろう。

山には草木の種が舞い降りて、芽を出し根を張り山の一部となる。

ときには火山が爆発して、山の上にあらたな灰が降りそそぐこともあるだろうし。

川が土砂を運んで山の形を変えていくことだってある。

山という存在は実は「広義の新陳代謝」をしている。じゃあ山は生命だろうか?




人間と山とを、生命か非生命かと区別する基準は何かと考える。それは、たとえば「境界線の有無」である。

人間というのは「ここからここまでがぼくです、ぼくは自分の心臓と自分の肺を使って、自分に所属する細胞にくまなく酸素や栄養を与えて生まれ変わらせ続けます」という存在である。

生命のアイデンティティには境界がある。

山は、そうではない。

富士山の裾野がどこまで伸びているかと定義することはできないだろう。日本列島ぜんぶ富士山の一部であると、いえないこともないからだ。境界線がはっきりしない。草木の萌芽や土砂の堆積は、ひとつの山に限定して起こることではなく、シームレスに周囲にも降りそそいでいる。



さらに、「自分で複製をするかどうか」という項目も、よく生命の定義として用いられる。

生命は次世代を用意する。単細胞生物の細胞分裂、多細胞生物の有性生殖、やり方はさまざまであるが、子孫を残すための仕組みが備わっており、行使することができる(実際にするかどうかはともかく)。

山は自分を複製しない。




でもこういうことを考えるとけっこう難しい問題にぶちあたる。

「地球」は生命だろうか?

境界があり、複雑な新陳代謝を繰り返して常に地球であり続けようとする存在は、きわめて生命に類似している。

しかし、「複製」はしないだろう。

ある日突然太平洋のどまんなかに亀裂が入り、真ん中からグアッと分かれて地球分裂をしたらすごいことになるだろうなあ。

だから地球は生命とは呼べないね。ぼくは長らくこの答えで満足していた。




でもふと思った。

遠い将来に、人類が「第二の地球」を求めて宇宙に船出して、見つけた星にあらたな文明を築いたとしたら。

それは地球が人間という名の精子を飛ばして、地球型惑星という卵子と受精をはかる行為……惑星レベルの有性生殖と言えないだろうか?




まあそういうSFはとっくに描かれているんだろうな。読んだことがあるという方は教えてください。