2018年5月31日木曜日

回線前ヤ

職場においてある歯ブラシはピンク、歯ブラシを立ててあるマグカップは赤である。

「なんとなく、女の子っぽいカラーリングにしてみた。」

ぼくは未だに心のどこかにこういう感覚がある。古い人間だ。

けど色をこうした理由は特にない。強いていえば、病院1階のローソンで売っていた最前列の商品をてきとうに手にとったらこの色だった。

歯ブラシを青とか緑にして、マグカップも濃紺とか黒とかにしておけば、デスクはシックな感じにまとまったかもしれない。




……実をいうと、ぼくは「雑然さ」を基調としたデスクづくりをしている。

モニタの高さは「アフタヌーン」で調整。

PCの横には全国各地で集めてきたナゾのストラップ。

付箋だらけ。

でもこれはすべて計算なのである。

「目に飛び込んでくるものたちがいつも落ち着かない状態」の中で仕事をする。

少し動悸が強まる気がする。

ざわざわとする。

雑沓、雑音、雑感が押し寄せてくる。

混沌の中で瞬間的に自分が凪ぐために、どうしたらいいかを必死で考えることが、いい仕事を生むのだ。







以上が、たった今デスクを見回したぼくの、うそいつわりである。

いつのまにかこうなっただけだ。

計算とかない。

能動とかない。

なるようになったらこうだった。中動態である。

でもまあ、気に入ってはいるんです。理由を後付けしようと思ったらいくらでも書ける、というだけでね。






少しずつ、家の中のものを職場に持ちこんだ。本、CD、Nintendo 3DS、クッション、チョコレート。ぜんぶ職場にある。

そしたら、家では寝る以外に何もしなくなった。

人には、「断捨離。シンプル。無印良品。家にはものを置かない派。副交感神経をだらんだらんに発火させるためのミニマムライフだから。」と説明している。

これもうそいつわりである。実際これらの反対の状態に今ぼくは、いる。

2018年5月30日水曜日

病理の話(205) めいめいを命名します

名前を付けるというのは、学問の大事なおしごとの一つである。


ある病気を例にあげよう。

あまりよく加熱していない鶏肉を食べて、少し時間が経つと発症する。下痢が起こり、ひどいと脱水になる。下痢を繰り返すたびに、少しお腹が痛いなあと感じる。CTや超音波でみると、回腸から上行結腸にかけての部分がだいぶむくんでいる。便を培養に出すと、カンピロバクターと呼ばれる細菌が認められる。

たとえば以上のような病気を、毎回、このように3行も4行もかけて説明しなければいけないとしたら、それは医療者にとっても、患者にとっても、時間がかかって大変だし、同じ話を何度も繰り返さなければいけない。

だから、「カンピロバクター食中毒」とか、「感染性腸炎(カンピロバクターによる)」などと、名前を付ける。



名前を付けることで、伝達が楽になる。患者が家族に伝えるにしても、医療者がスタッフ同士で情報を共有するにしても、ひとことである程度まで伝わるというのはとても便利だ。

名前を付けることで、これに対応した対処ができる。治療法がある程度決まってくる。患者はそれぞれオンリーワンの人生を過ごしているけれども、治療も毎回オンリーワンでは大変だ。ある程度、似たような症状、似たような原因の病気については、似たような治療ができたら便利だなあと思う。

名前を付けることで、学問が進む。同じ「カンピロバクター腸炎」に分類される病気を何百例も集めてくることで、この病気の特徴がわかり、どのような経過をたどるか予想することが簡単になり、よりよい治療法も開発される。



そして……。

名前を付けるだけで安心してしまってはならない。




例えば同じ「カンピロバクター腸炎」であっても、その程度は人によってさまざまだ。

「同じ名前でも、程度が違う」ということ。

程度とは?

たとえば、下痢の回数。脱水になっている程度。これらが違えば、「対処の程度」を変えていくべきだ。軽症例と重症例に同じ治療をしていいとは限らない。

患者側の要因も毎回異なる。超高齢者で、普段からしんどそうにしている人が下痢をするのと、生来健康で体力もある若年男性が下痢をするのとでは、対処は異なる。赤ちゃんだったらどうする? 妊婦さんだったらどうする?

同じ名前であっても、常に同じ対処でいい、とは限らない。

名前を付けたら、さらに考えなければいけない。





病気と戦おうと思ったら、考える事をやめてはいけない。でもこれって理想論だよね。

前回の記事と真逆のことをいうけれど。

病気のことを考え続けていたら、それだけで人生が終わってしまう。

もっといえば、人生をかけて病気のことを考え続けていても、病気というのは解明しきれない。

だから、人間は工夫する。



病気のことを考える手順が、「1から10まで」あるとする。

これを毎回、ぜんぶ、順序立てて考えなければいけないか、どうか。

効率化することができるのだ。

たとえば、病院に来た患者が下痢を訴えていたとき。

1から3くらいまでは、どんな患者であっても共通して考えなければいけないことだったりする。

「1~3」が共通している。

そしたら、「1~3」に名前を付ける。




名前を付けることで、とりあえず、思考の3割くらいを省力化できるようになる。

その分、4から10までの思考をより深めることができる。




「疾病の命名」によって得られるメリットは、ここにある。




病理診断医が普段やっていること。

「命名と分類」。

この病気が、なんという病気か。どれくらい進行しているか。

名前を付けて、程度をはかるしごと。





病理医がいると、病院のスタッフは、考えの多くを省力化できる。

そして、その分、さらに考えてもらうことができる。

2018年5月29日火曜日

ヴァレリーはうそばかりついています

人生はさほど短くないので、人は無意識に人生を短く生きるための技を手に入れる。

一緒に歩む人に「家族」と名前をつける、などというのはまさに人生を短縮するワザなのだ。

毎朝同居人と顔を合わせる度に、「おはよう、今日も愛情と信頼と利害関係と社会関係でうまく結びついたぼくたちは昨日と同じように仲良くやっていったほうが少しだけうれしいよね。」なんて声をかけなければいけないとしたら、なんともかったるい話ではないか。

そこを「家族」のひと言でギュンっと短縮するからこそ、1日にはゆとりが生まれ、何もしていない時間が生まれ、何も考えていない時間が生まれ、何も考えていなかった時間はあとから振り返ると矢のように過ぎ去っているように感じる。



すべての瞬間に思考を止めていなかったら、人生はほとんど無限とも思えるくらいに長く感じるはずなのだ。

だってぼくを含めたほとんどの人にとって、思考というのは時間の流れと隔離された無限のような広がりを有するものだから。



ぼくを含めた大多数の人によって、「もうそれ以上考えなくていいよ。」と、名前をつけて放っておいているものがあるからこそ、人間はときどき考えるだけで日々をやっていくことができる。

ヴァレリーは、デカルトの変奏とうそぶきながら、言った。

「私はときどき考えるので、私はときどき存在する。」

ときどきしか存在しない人生は、短くなる。




名前をつけまくる。

一度回した思考をもう一度回さなくて済むように。

名前をつけてつけてつけまくる。

そうすることで、考える時間が少しずつ短くなり、存在する時間が少しずつ短くなり、人生はあっという間に過ぎていく。




「命短し恋せよ乙女」というのはまったく失礼なフレーズだ。

思考の深淵に潜む乙女にとって命は無限大である。

そしてぼくらはときどき乙女のフリをして、それでも名前をつけてしまうので、命は短く、恋をせよと激詰めされることになる。

2018年5月28日月曜日

病理の話(204) 学術とぼくらの距離

たしかになあ……。患者のことを考えている時間よりも、学問のことを考えている時間のほうが、少しだけ長いかもしれない……。

そんなことをふと思った。




病理医は、病院の中でひたすら学問を続けていく仕事だ。患者から採取されてきた臓器の一部分、あるいはひとつの臓器ぜんぶ、ときには人体すべて(解剖検体)を、見て、考えて、評価していく。

医療行為には違いない。

けれども、やっていることは極めて学問に近い。医者のイメージじゃない、学者のやることだ。

見て、考えて、書き表す仕事。



もちろん医療は学問だけで成り立っているわけではない。病院の中にはさまざまな仕事がある。

「VS ヒューマン」としかいいようのない、お勉強ができることよりも人当たりがよく思いやりがあることのほうがよっぽど重要視される場面もいっぱいある。

というかそっちのほうが有名だろう。ぼくはテレビからヒューマンドラマという惹句が聞こえてくると腰の骨がはずれる持病にかかっているが、結局の所、医療とはヒューマンドラマである。

それでも、ヒューマンの輪から片足を外して、ずーっと学問に専念する部門というのは、やっぱり必要だろうな。みんなわかっている。必ずどこかに学問をやる人がいなければいけない。医療の根幹を支える医学は、科学なのだから。

わかっているけれど。

「誰かがやらなければいけない仕事」を、「わざわざ自分がやろう」と思うかどうかはまた別の話だ。




たった一度しかない人生で、せっかくとった医師免許を、患者のためじゃなくて学問に捧げるなんて、もったいなくないか?

この質問。というかツッコミ。何千回聞いたろう。

「いくらなんでも千は多いでしょ」と思うか?

ぼくにはフォロワーが89000人いるんだ。




なぜ医者になれたのに、医療をしないことを選んだのか、という疑問に、普遍的に答えることは難しい。

病理医になる人が少ない理由の一端も、たぶんこのへんにある。

でも、ぼくのなかには、いちおう答えがある。

医師免許を持った科学者になれる幸運を、過小評価しなかっただけのことだ。

学者になりたい人は、病理医という選択肢を知って欲しい。ここはパラダイスだ。学者でありながら給料をもらえる。




それでも、ほかの医療者たちは口々にいう。

「すばらしいお仕事ですよね。病理医の方々ががんばってくださっているから、我々がきちんと医療をできる

ぼくらはいつだって医療からはちょっぴり仲間はずれだ。

そしてぼくは元来、ちょっぴり外れたところが落ち着く性分であり、同様の方々に多くフォローされている。

2018年5月25日金曜日

魔貫光殺法はシュババグルグルグルグルドカーンだった

小学校低学年のころ、学校からの帰り道はたいてい、よりたくんと一緒に歩いていた。

彼はジャンプを毎週読んでいた。たしかお兄さんがいたはずだ。

そして読んだドラゴンボールの内容をぼくに教えてくれるのだった。

「しゅばばば! ばきばきばき! がががががっ!」

彼は丁寧に効果音を口に出して説明してくれる。

ぼくはジャンプを買っていなかった。コミックスだけだった。

最新号の情報はだいぶ先に進んでいる。ラディッツ戦の最後に宇宙船から悟飯が飛び出してくるシーンも、よりたくんの解説で、

「おとうさんを! いじめるな! わああ! ドカーン! ドゴオオオ」

という感じで先に教えてもらった。



ぼくはそのころから、マンガの描き文字にとても興味をもつようになり、マンガの描き方講座のような本を読んでも描き文字の技法ばかりを読んでいた。くせは今でも続いており、マンガの描き文字が独特だと本編そっちのけで「おっ」と思ってしまう。




中学校のころ、スーパーファミコンでシムシティをやっていた。

シムシティというのは自分が市長になって、町をいちから作って人口を増やしていくのが目的のゲームだ。

人口が10万人を越えると、町は「メトロポリス」と呼ばれるようになる。

そして、目標は50万人突破なのだが……これがとても難しかった。

結論からいうと、ぼくは中学校の間中、とうとう50万人を越えることができなかった。ずっとメトロポリスのままだったのだ。

かなり長い時間、「メトロポリスのBGM」を聞いた。

ずーっと口ずさんでいた。

たいして長い曲ではない。えんえんとループする曲だ。

だから、聞いているうちに、だんだん、「パート」が分かれて聞こえてくるようになった。

最初は主旋律のにぎやかなメロディを口ずさんでいたが、飽きるほど聞くうちに、いつしかベースの音が耳に残った。




ぼくはそのころから、バンドミュージックのベースラインに気が向くようになった。くせは今でも続いており、何かいいなと思うバンドがあるととりあえずベースの音を探しにいってしまう。





子供のころの行動が大人になってからの自分に影響を与える、というのはいかにもありがちだ。

しかし、子供の頃の行動の「何が」大人になっても残っているかというのはなかなか予測しがたいと思う。

よりたくんの顔は実はもうほとんど忘れてしまった。再開したとしても覚えているかどうか自信はない。

シムシティも長いことプレイしていない。一時期はバーチャルコンソールにも入れていたのだが……。




影響というのは思ったようには伝わらない。影響ということばに「影」を組み入れた昔の人は天才なのではないかと思う。影を落とし、残響がひろがるように、影響はじわじわとしみこんでいる。

2018年5月24日木曜日

病理の話(203) 原因探しはむずかしい

がんが「がんである」と診断し、「どれくらい広がっている」かを判断する。

最近はこれに加えて、「なぜがんになったのか」まで検討することも求められる。現代の病理診断は奥が深い。




なぜがんになったのか、というフレーズから、多くの人がぱっと連想するのは、

・たばこの吸い過ぎ

とか

・遺伝

とかではないかと思う。

間違ってはいない。しかし、現在のがん科学は、「がんになった原因をひとことで説明するほど単純ではない」。

これらはいずれも重要な因子のひとつではあるが、「がんになるかならないかを決定づける全て」ではない。






ぼくが今スマホを落っことして割ったとしたら、スマホを割った「責任」は「ぼくが落としたこと」にある。ここまではいいだろう。

責任、は、わりと社会的なことばであり、比較的ひとつのところに収束することを求められる。どこかで一箇所に落とし込んでおかないと、「誰が責任をとるのか」という問題があやふやになるからね。

けれど、スマホを割った「原因」は、決して一つではない。

ぼくがスマホを落としたこと。これは確かに原因のひとつだ。

でもそれ以前に、スマホを「持ったから」落とした。持たなければ落とさなかった。だから、持ったことも原因ではある(責任とは言わないだろうけれど)。

スマホを持ったときにぼくが疲れていた。原因ってのはさかのぼることができる。

スマホがたまたまつるつるしていた。こちらはぼく個人とは関係のない、スマホ側の要因だ。

スマホのカバーの耐久性がもろかった。これだって原因になる(責任は問えないだろうなあ)。

落として割ったところがたまたま硬かった(責任ではないけれど原因だろうなあ)。



これらはすべて「スマホが割れた原因」。

スマホの修理代とか賠償とかを考えると、「責任はぼくにある」のひとことでいいだろう。

でも厳密なことをいえば、スマホが割れた理由は「ぼく」だけとはいえないのである。

「いやー、結局おまえがスマホ落としたから割れたんでしょ?」

うん、まあ、責任論だったらそのツッコミでいいと思う。けれども、「責任」と「原因」をごっちゃにしてしまうと、今日の話は理解しづらい。

たとえば、スマホ会社が「割れにくいスマホを作るための研究開発」をする際に、「定期的に市原にスマホを落とすなと注意喚起のメールを送る」みたいなわけわからんちん対策をとるだろうか?

きっとスマホ会社は、原因を細かく分析した上で、自分たちが直接アプローチできる「落としても割れないくらい強いカバーを作ってみよっかな」くらいのアイディアを出すだろう。

原因が複数あると気づくと、対処できる場所の数が少し増える。




話を冒頭に戻す。

最近は、病理医が、あるがんを診断する際に、「なぜがんになったのか」まで検討するよう求められることが多い。

それは、遺伝子変異の検出だったり、染色体異常検査だったり、メチル化関連タンパクの免疫染色だったりする。

「この遺伝子に変異があるからがんになったのだな」というのは、重要な原因のひとつである。

「唯一の原因」ではないが、「その原因を追及することで、将来なんらかの対策がうてるかもしれない」ということを期待している。

ただ、原因は複数あるということが肝要だ。

そう、病理医のやることは、どんどん増えていく。

2018年5月23日水曜日

シモンジアチャイネンシス

Windows updateがはじまってしまったので、仕事を始めずにぼうっとPCのモニタをみていた。

スマホをいじりたくなる。

どうせ数分でPCが起動するのに、そこまで待てずにスマホをいじりたくなる。

スマホにはアプリがあんまり入ってない。

とりあえず数日前に息子に送った芝桜の写真に既読がついているかどうかを確認する。

ついていた。



スマホではブラウザの「お気に入り」を使わなくなった。

ブラウザを起動してからお気に入りを開いて、見たいページ名を探してクリックする、という一連の手間が惜しい。

スマホのトップにGoogle検索の窓が開いている。そこに、見たいウェブサイトの名前を入力して、毎回アクセスしている。実はこのほうがはやい。

たとえば「ほぼ日」と入れる。すぐほぼ日が見られる。便利だ。

「ほほ」までフリックしたところで予測変換欄に「ホホバオイル」が出てくるのにも慣れた。

ほぼ日を見に行くつもりでホホバオイルを検索してしまうことが年に数度ある。

だからホホバオイルに詳しくなった。どうも一番売れているのは無印良品のやつらしい、ということもわかった。

ホホバというのは草の名前だ。たしかスペルはJojobaと書く。スペイン語だったはずだ。ジョジョバオイル、と書くとすごく潤沢なふんいきが出る。

ホホバオイルは植物から出たアブラなのに、マッコウクジラのアブラと同じ「ワックスエステル」に分類されるため、ほかの植物性油脂とは違った用い方をされるということだ。マッコウクジラとかバラムツのような深海に棲む生き物は、この油脂を浮力調節とエネルギー貯蔵の2つの役割で用いているという。

ホホバはべつに浮かなくてもいいだろうになあ、と思ったりする。

油脂が生体の中で重要なのにはいくつかの理由がある。一番大きいのはたぶん「水とすみわけることができる」点だろう。生命は、とかく「しきり」をつくらないと活動を維持できない。内部にいろいろごちゃまぜのままでは機能をうまく分けられない。分業するために壁がいる。その意味でアブラというのはとても役に立つ。また、いざというときのエネルギー源としてため込んでおけるというのも大きい。しかし浮力調節というのは思い付かなかったな。



……なんてことを、「ほぼ日」の検索をミスったついでによく調べている。



日常の無駄な会話こそがアイディアの源泉になるのだ、とか、会って話すことでセレンディピティがおりてくる、とか、人との会話こそが可能性を広げる、みたいなことは昔からよく言われている。それに異論はない。

ないが、ぼくはしばしば人ならぬスマホを相手に、中途半端な、結末のぶれた、目的地のわからない会話をしている。会話相手が人間じゃなくてもそれくらいはできるのだ。

このことを人にいうと、

「スマホ依存じゃないの?w」

「さすがツイ廃」

みたいに揶揄されてしまう。

納得いかない。




お前、ほぼ日からホホバオイルに飛んだことあんのかよ。

2018年5月22日火曜日

病理の話(202) 臨床検査管理医というマニアック資格

病理医は顕微鏡をみて、人体に起こっていることや病気の正体を探る。

ただ、世の中には、顕微鏡をみるだけではわからない病気というのがかなりある。

たとえば心臓とか、血流の異常。

ホルモン、代謝に関する病気。

これらは、顕微鏡で何かをみればぴたりと当たる、という類いの病気ではない。

「病理医は苦手としている」とまとめてもいい。



現代医学においては、全ての病気に詳しい医者というのはあり得ない。

医学の進歩に伴い、診療はかつての何千倍も複雑になった。

たとえ生涯をかけて学び続けても、人体の全てを知ることはできない。

病理医も、自分の得意とする「がん診断」に専念することで、医療の一翼を支える存在となる。

同じ診断学といっても、がん診断は詳しいが、循環器救急の診断はよく知らない。

それでも十分に役に立てる……。



……けれどぼくは、「自分の苦手な分野についてもある程度知っておきたいな」と考えるほうだ。

ときおり、本来であれば臨床医がするような検査推定に首をつっこんで、自分でも考えてみようとする。

臨床医には「現場にいないくせに、ちょっとかじったくらいで生意気にも臨床を知った気でいる、頭でっかちな無礼者」と思われているかもしれない。

実際、出版した本の書評を読んでいると、

「現場で働いたことがない病理医のくせに、診断学の本を出している奇特な人」

みたいな評価をみつけることもある。たぶん悪い意味で書かれている。




ぼくは病理専門医という資格のほかに、臨床検査管理医という簡単な資格を持っている。

この資格は、実は取るのがとても簡単だ。

なんと、東京で1日だけ講習を受ければすぐ取れる。

だから持っていること自体にはあまり意味がない。これで給料が上がるわけでもない。

(似た名前で、「臨床検査専門医」という資格もあります。こっちはとるのがとても大変)




でも、ぼくはこの「臨床検査管理医」という資格が気に入っている。

これは、「AED講習 受講証」みたいなものだ。




よく、消防署とか行政施設で、一般市民を相手に救命講習が開催されているだろう。

救命講習を受けると受講証がもらえる。

この受講証を1枚持っているからといって、いざ、倒れている人に対して100%完全な応対ができるとは、思わない。

そこまで救急対応というのは簡単ではないからだ。とっさのタイミングであわてず平常心でいることも難しい。

けれど、講習を受けたことで自信と自覚を手に入れることが大事なのではないかと思う。

いざ、倒れている人を目にしたときに、あわてたり呆然としたりしながらも、「自分は受講証をもらったんだ、冷静に思い出せば何か役に立てる」と奮起することで、救急隊への連絡を早めにできたり、複数の人を呼んできて一緒に対応することを思い出せたりする。

そして、ときおり壁にかけてある受講証を眺めて、「そういえばそろそろ思い出さないといけないから、また受講しようかな」と気づく。ときおり講習会を受け直したり、YouTubeの救命動画に目を留めたりする。




臨床検査管理医の資格もこれに近いところがある。

持っているだけでは有名無実だが、

「ぼくは病理医として顕微鏡診断をするだけではなく、臨床検査室のほかの業務にも詳しくなり、技師さんたちと一緒に検査学についても学び続けるぞ」

という意思表示の証とはなる。




フラジャイルを読んだ医療者が「病理医でこんなに臨床診断に詳しいやついねぇよ」と言ったり、「これは病理医の仕事ではなく検査専門医の仕事では?」とつっこんだりするシーンにときおり出会う。

けれどぼくからすると、あの岸先生のスタイルというのは「ぼくが目指す像」なのだ。

あなたは突拍子もないほどすごい名医にあこがれたことはなかったのだろうか?

ぼくはある。それも今あこがれている。

ぼくはマンガの登場人物くらい優秀になりたいと今でもわりと本気で思っている。

2018年5月21日月曜日

おとなのふりかけ

今回の釧路出張は忙しいとわかっていた。

Twitterをせず、普段はまず飲むことのないドリンクも飲みながら、猛然と働いた。

現在、土曜日の朝、9時。

昨日と今日で、無事、2日分の仕事をすべて片づけることができた。

飛行機の時間まではまだ余裕がある。あと1時間くらいは、ここでのんびりしていても大丈夫だ。

安心して、ノートPCを開いてモバイルWi-Fiに接続した。


全身がとても痛い。特に首のまわりがひどいことになっている。

目をあまり開けると肩こりがつらくなる感じがある。今、薄目でキーボードをたたいている。



いつもと仕事量は特に変わらない。ただ、1時間半ほど早く終わった。

この1時間半を、いつもはTwitterをする時間に換えて、ほどよく全体にふりかけていたのだ。

ふりかけをかけずに猛然と働いた結果……。

脳も背中もオーバーヒートしてしまった。

すっかり疲れてしまった。



そういえば先日、ぼくがこれから仕事をしていくうえで、

これからはにこにこ働くことを目指そう、という趣旨の決意を書いた。

でもこんなに体が痛かったら笑えない。



ぼくはTwitterをやりながら働いた方が、陽気な顔で仕事を続けられるんだな、ということを、なんだか今更実感した。

「Twitterをやめればもっと働けますよ」という人がたまにいる。これからはこう答えよう。

「1年くらいはもっと働けますが、ぼくをあと30年働かせたいなら、Twitterをやめさせないほうがいいと思います」。





……これでぼくがもしTwitter続けたまま来年すぱっと仕事やめたらおもしれぇだろうな。

2018年5月18日金曜日

病理の話(201) 虫垂だの農家の四男坊だの千葉だの

マンガ「ブラック・ジャック」の中に、

「虫垂だの農家の四男坊なんてのは
やたらに切っちまっていいもんじゃないだろう」

というセリフがある。

これは最近の医学でも、まったくそうだその通りだと言われている。




虫垂というのは一般には「モウチョウ」などと呼ばれており、しかもそれは基本的に病気のニュアンスを含んでいる。

右の下っ腹が猛烈に痛くなり、ひどいと手術でとらなければいけない。それが「モウチョウ」。

ごく一般的に知られているのはこれくらいだ。

かつて、小学生とか中学生の間では「あいつモウチョウで陰毛ぜんぶ剃ったらしいぞ」と、なぜかやたらと剃毛と一緒に語られる機会が多かった。

今では「モウチョウ」の手術で陰部の剃毛が必要とは限らない(むしろしないことも多い)。



モウチョウモウチョウと書いてきたが、正確には「虫垂炎」である。

この有名な病気が起こる舞台はあくまで虫垂であり、盲腸ではない。

「チュウスイ」という発音が特に難しいわけではないのに、なぜか俗世間には「モウチョウ」という呼び名で広まってしまった。

誰が最初に、虫垂炎をモウチョウと言い出したのだろう。ふしぎだ。

盲腸の先端部にちょろっと、バルーンアートのほそながい風船の「まだ空気が入っていない細い部分」みたいな感じでぶら下がっている小指くらいの臓器が「虫垂」。
https://www.med.or.jp/forest/check/chusuien/01.html (日本医師会のホームページより引用)

この虫垂に炎症が起こっている病気を「モウチョウ」と呼ぶのは、ちょっと雑だなあ。

千葉にあるのにトウキョウディ……

やめとこう。「千葉が虫垂だという意味ですか!」とか絡まれたら困る。




さて、この虫垂、

「いつか病気になるかもしれない爆弾、そして機能は特にない」

とまことしやかに信じられていた。

つい最近まで、虫垂の機能はよくわかっていなかった。

けれども、この虫垂にもなかなかたいそうな機能がある。

現時点でぼくが知っている「虫垂の機能」はおもに2つあるのだが、そのうちの1つ、「常在菌のストックをしている」というのが「おおー」って感じがして好きだ。まあまだ完全に証明された仮説ではないようだが。




人間、たまにお腹をくだす。

水みたいなやつがでる感じの。

このとき、「善玉菌」も、けっこう洗い流されてしまう。

悪い菌に感染してしまい、腸の中が「悪玉菌」みたいなのでいっぱいになることもある。

このときも、「善玉菌」が駆逐されてしまう。

気軽に「善玉菌」って書くと、なんだ、正しいことばを使え、みたいに怒る人もいるのだが、わかりやすいのでこのまま書く。人間の体内では、人間とうまく協力してやっていってる善玉菌(常在菌)がかなりの数いる。この菌を倒すと健康を損なうくらい大事だ。一説には数百とか数千という種類の菌が腸内に住んでいるのではないか、とさえいわれる(ちょっと多すぎる気もするが)。

この、腸内の菌環境が、ときおり乱れてしまう。人間は毎日違うものを食べているし、ときどきお腹をこわしたりするからね。

で、善玉とか中立みたいなやつらが元気をなくして、いわゆる「悪玉」がメインになってしまうと、そこから善玉菌が復権するのにはなかなか苦労をする。

この苦労にに備えて、「虫垂」の中に、善玉菌をストックしている……という考え方がある。

非常時の備蓄みたいなものだ。

有事の際に、倉庫にある物資を配る。




そんなことがまったくわかっていなかった昔、手塚治虫が作中にこめた

「虫垂だの農家の四男坊なんてのは
やたらに切っちまっていいもんじゃないだろう」

というセリフ。

手塚治虫にしてみたら、浪花節みたいなノリでかっこよく入れただけのセリフかもしれない。手術したらその分合併症のリスクがあるから、何もない虫垂を気軽にとるのはやめようぜ、くらいの意味はこめていたのかもしれない。

けれど、今の知識を持ってからこのセリフをみると、なかなか味わいがある言葉ではあるなあ、と思う。



まあ今の時代に「農家の四男坊」が感じるニュアンスは、当時のそれとはだいぶ違うだろうけれどね。

2018年5月17日木曜日

青春それは君が取り込んだ光

自分の裁量で仕事したいなあとずっと思ってきたのだが、いざこれができるようになると、

「今ここで俺が気づかなかった問題があったら、その問題は誰も気づかないままスルーされ続けるのだな」

という恐怖におびえるようになった。


うまくできている。


「いつかなりたい自分」の姿に、理想を見ていた。けれど、いざそれになってしまうと、理想が自分の中に取り込まれて、自分の目では見えなくなる。

理想は光のようなものだ。ぴかぴかと輝かしい。

それが体内に取り込まれる。

光がなくなる。

また、どこか、外にある別の理想をうらやむ。

自分の目にうつる光を自分の体の中に取り込んでしまったら、その先はもう暗闇の中を歩いていくしかなくなってしまう。



ぼくはある程度職業人として成熟したら、次の目標として「教育」をしよう、とずっと思ってきたのだ。

しかし、最近、教育はまあもちろんやるんだけれども、それだけじゃ迷ってしまうな、という実感がある。




教育というのは、他の人にとっての光になるということだ。

自分が光る。これはたいへんなことだ。がんばらなければいけない。

けれど、ぼくの体がぴかぴか光っても、ぼく自身の目でそれが見えるわけではない。

真っ暗闇の中で自分だけ光って、ほかに光るものがなければ、結局ぼくはどちらに歩いていけばいいのかという話になる。

だからほかの光を探さないとなあ。




「教育する立場になっても、生涯成長し続けようとしないとだめっすよね」

まあ、ひとことでいうとそういう話なんだけれども、ぼくが今ここで書き切れていないニュアンスがある。

「体内の光を強くするだけじゃ足りないんじゃないかな」

ってことをいいたいのだ。

そりゃあ後からついてくる人にしてみれば、ちょっと前を歩いている人の光がどんどん強くなることはうれしいだろう。

それはもちろん目指す。

けど、自分が今やれていることのレベルをどんどん上げていくことだけでは、自分の体の輝きが強くなるばっかりで、周りは依然として暗いままではないか?





ぼくが今、外に新たに見ようと思っている光がある。

まだぼんやりとしか見えていない。しかも遠い。

今まで自分の体の中にうまく取り込めていなかったものだ。




「いかにも楽しそうに振る舞う」という光である。

「働いているときほどにこにこする」という光である。

たぶん本当に難しい。

今まで育ててきたものとは違う、別個のスキルがいる。

人生には目標が多い。

2018年5月16日水曜日

病理の話(200) 感染症ゲリラテロリスト

感染症という病気がある。

この病気は、「病原体(細菌とか、ウイルスとか、カビとか)」が人体に住みつくことで引き起こされる。

人類としては、これらの病原体を残らず撲滅してしまいたい。そうしたら、感染症もこの世からなくすことができるだろう。

そんなことはできるのだろうか?



ある1種類の病原体を地上から撲滅させることは、できなくはない。

現に、天然痘ウイルスというのは地球上から撲滅できている。

けれども、ほとんどの細菌やウイルス、真菌などは、ほぼ撲滅できていない。



撲滅できない理由はさまざまだ。細菌かウイルスかによってもそれぞれ異なる。

とりあえず今日は、「細菌」を例にあげて考えてみることにする。

細菌は、まず第一に小さすぎる。次に多すぎる。どこにでもいる……。

そして、もうひとつ、非常にだいじな問題がある。

「よい細菌と悪い細菌を見分けて、悪いやつだけを倒すことが非常に難しい」ということ。

これが実はけっこうでかい。



あるひとりの人の、体の中にいる細菌を絶滅させることは、できなくはない。

超強力な「抗生物質」を作り上げて、人体に投与すればいい。

ところが、そんなに強い薬を使ってしまうと、病気の原因になっている細菌だけではなく、皮膚とか腸などの中に元から住んでいた「善良な」細菌を全滅させてしまう。

すると困ったことになるのだ。

元から住んでいた「常在菌」たちは、そもそも、人体にとってバリアのような役割を果たしてくれている。常在菌がいるからこそ新たな病原体の侵入を防ぐことができる。さらに、バリアだけではなく、実は栄養吸収とか栄養産生の役割までも担っているのではないか、とさえいわれている。

悪い細菌だけを倒せるならばともかく、人体にとって役に立っている細菌まで倒してしまうのはまずい。




たとえ話をする。

東京ドームで野球の試合が開催されている。伝統の巨人阪神戦だ。

ここにテロリストが侵入し、どこかに爆弾をしかけるらしい。

テロリストは20人くらいいるという。こまった。どうする?

ここでSAT(特殊急襲部隊、だっけ?)が提案する。

「テロリストを確実に全滅させる手段が1つあるぞ。東京ドームに火を放ってしまえばいい」

そんなことを言いだすSATはクビだろう。

テロリストだけじゃなく、50000人くらいの観客がまるこげだ。なにを考えておるのだ。




感染症を撲滅するためには、「悪い奴だけを選んで攻撃する手段」が必要だ。

とりあえず強すぎる薬では解決にならない。

微生物のうち、病原性の微生物だけを選び取って利く薬、というのがいる……。



これが難しい。

テロリストといっても人間だ。

善良な野球ファンと同じ、人間なのだ。

いかにもなリーゼントに入れ墨、サングラスで武装しているテロリスト、なんてのは果たしているだろうか?

まあそんなやつは入り口で警備員に止められてしまうだろう。

たいていのテロリストは普通の恰好をしているはずだ。

「テロリストだけをうまく見つけ出し攻撃する薬」が、極めて難しい機能を必要とするだろうことは、おわかりいただけるかと思う。





感染症だけに限らない。

「がん」だって、同じような難しさがある。人体からがん細胞を全滅させる一番かんたんな方法は、超強力な抗がん剤を大量投与することだ。ただしこの場合、正常の細胞も大ダメージをくらう。

だからぼくらは、がん細胞だけを見極めて、そこだけ攻撃する手段を探す。




体内に潜んでいる悪人は、善良な人とよく似ている。

こまかな違いを抽出して、「お前が悪だ」ときっちり指摘することが必要だ。

病理学とは、正常の細胞や正常の微生物などをきちんと学ぶところからスタートする。

わずかな違いに意味があるかどうかをじっくり考える必要がある。

2018年5月15日火曜日

会ったことがなく予定もないです

エモだバズだとこしゃくだな、人生どっかエモくて一度はバズるんだよ、と思いながらいろんなブログを読んでいた。

最近よく思うことは、きっと燃え殻さんみたいな人がぼくの人生を歩んでいたらぼくの経験してきたエピソードがエモくなるだろうし、燃え殻さんみたいな人が早朝にNHK北海道のアナウンサーをやって地方のニュースを紹介していたらそのニュースもバズるんだろうな、ということだ。語られる人によって価値が決まる体験、というものがこの世の中にはあるように思う。

そしてぼくはさらに強く思うのだが、燃え殻さんの文章力とか燃え殻さんの技術がすばらしいからエモくてバズるんじゃない。燃え殻さんの技術をすべて学んでまるまる用いたとしたって、それは燃え殻さんの文章には決してならない。

ぼくは燃え殻さんの書いた文章を読んで「すばらしい技術だ」とか言って文章表現を語り出す人はいろいろわかっちゃいない、とすら思っている。

すばらしい技術を持っている人が燃え殻さんだからぼくは揺さぶられる。




たとえばぼくがルーク・スカイウォーカーだとして、日記を書いてブログに載っけていたら、スターウォーズという壮大なバズりは生まれなかった。

あれは映画の達人たちが映像にしたから、世に「こんなフィクションがあったのか!」と楽しく受け入れられた。

それはもう間違いない。

もともとそこにあったものに意味を与えるためには、語り手に技量が備わっている必要がある。その意味で「メソッド」は存在する。

けどぼくはその上で思う。メソッドでバズる、なんてことはあり得ない。




最近強く自戒していることもある。

「メソッドを探す人」のことは絶対に笑ってはいけない、ということ。

自分のやりたいことを達成するためには手段が必要だ。その意味でメソッドは運転免許みたいだし、地図みたいなものでもあるし、鉄道のレールみたいなところもある。他人のレールをうらやんで、乗り入れ線を探す毎日だ。

メソッドを学ばないとことばがそもそも届かない。それは本当だと思う。




けど、エモとかバズというのは、ことばが届いた先に生まれることだ。メソッドはことばを届けるまでの段階で備えてあるべきマナーのようなもの。

どこかにたまに出現する、億兆の人々の心根をぐしゃぐしゃに握りつぶすことができる運命的な人間(燃え殻さんを思い浮かべればいい)が、自分のことばを少しだけ人に届きやすくするために整備しおわっているべきもの。

それが文章術だと思う。




「エモい文章を書いてバズるための文章の書き方を学ぶ」というのは、

「美しい土地に行って風景を写真に撮るために、運転免許をとり地図を用意する」のに似ている。

自動車免許で写真は撮れない。地図を見てたどりついても写真が撮れるとは限らない。

燃え殻さんをほめようと思ったら、「燃え殻さんが文章を書く人でよかった」以外の言い方はなかなかできない。

2018年5月14日月曜日

病理の話(199) 脳をみがくという業務

「研究なんかしなくてもさあ、毎日まじめに顕微鏡診断して、給料もらえば立派な医者じゃん」

「カンファレンス? こっちから話すことなんかないよ、病理の報告書にぜんぶ書いてある。臨床のことは臨床医が依頼書に書いて教えてくれればいい話だよ」

「顕微鏡像に誠実であれば十分『病理医としての職責』は果たせてる。ほかの余計な仕事をする気は無い」

こんなかんじの病理診断医が、世の中にはけっこういる。

……こんなかんじ、といっても、専門用語が多くてわかりにくいかな。

もう少しわかりやすい例で書き直そうか。

上の病理医を、「ローソンでバイトしてる大学生」に入れ替えて、「見立て」てみよう。

だいたいこんな雰囲気のことを言っている。

「棚の並び方によって商品の売れ筋が変わる、みたいなのは本部が考えればいいことじゃん、俺はバイトなんだからレジを間違えなく打つことだけ考えてればいいだろ」

「客に愛想をよくしろ? 客だって投げやりに小銭投げつけてきたりするじゃん、別に必要以上に険悪にしてなければさ、人と人とが触れあうとかどうでもいい」

「まじめにバイトしてるんだから、バイト以上のことを求められる筋合いはないよ」

まあそうだね。けっこう正論だと思う。共感もできる。



一部の病理診断医にとっては、「研究」とか「論文を書くこと」とか「臨床医とコミュニケーションをとること」というのが、

・本職ではないこと
・給料は発生しないし、やりたいやつは勝手にやればいいこと

という位置づけになっている。

食って寝て遊ぶためのお金を稼ぐことが目的ならば、研究とかコミュニケーションなんてのは、まったく手を出す必要がない。

全く研究をしなくても、コミュニケーションを必要最低限しかとらなくても、病理診断医としてお金を稼ぐことは十分できるのである。

それが、いい、悪いという話をしたいわけではない。ぼくはこの価値観は十分にアリだと思っている。



その上で。

ぼくはコミュニケーションを取りたがるほうの病理診断医だ。

や、たしかに、ツイッターでしゃべる方のコミュ障とかいわれることもあるくらいだから、コミュニケーションがうまいわけではないだろう。けれど、なるべく欠かさないようにはしよう、と思っている。うっとうしかったらすみません。



研究もわりと好きだ。

や、まあ、その、ぼくは大学にいる人たちと比べたらゴミみたいなインパクトファクターしかもっていない。ぼくごときが「研究」を語ると、おこがましいことを言うなと怒る病理学者もいるだろう。でも、臨床レベルでちまちまと研究を続けていることは確かだ。ごめんね研究者として小粒でごめんね。




なんでぼくは、金にならず、本業から外れたことをわざわざしているのか、という話になる。



ぼくは(ご存じかもしれないが)計算高い性格だ。

慈善事業はしない。

「ぱっと見は自分の得にならないことをする」場合も、真にボランティアでやっていることなど、まずない。

「それ」が、めぐりめぐって自分の立つはずだ、というところまで考えてから、やっている。




そんなぼくが、研究とかコミュニケーションをやっているのはなぜなんだろう。

研究も、コミュニケーションも、給料になんらかの上乗せをしてくれるわけではない。

わかりやすい「利益」を得られた覚えがない。

じゃあぼくは、何を計算して、こんなことをしているのだろうか?





この答えはたぶん1つではない……と書いた方が、謙虚でいいのかもしれない。

けれどぼくの中では答えは1つだ。けっこうはっきりしている。

それは、

「商売道具である脳を、常に磨いておくため」

だ。




プロ野球選手は年俸制だと聞く。1年間、プロとして試合で活躍することを前提に給料をもらう。

彼らは、オフには何をしていてもいいだろうか?

商売道具である肉体を、遊ばせていていいだろうか?

答えはイエスでもあり、ノーでもある。

休息を取ったり、遊んだりすることは、きわめてだいじだ。

けれど、オフタイムにも、体がなまらないように多少走ったり、野球とは関係ないゴルフで体を動かしたりする。

あるいは、休息するにしても、「計算して」休息する。

決してパフォーマンスが落ちるほどの「だらけ」はしない。

オフのトレーニングが、給料に直接関係するわけではない。けれども、休息も含めたオフの過ごし方は、次シーズンに最高のパフォーマンスを示すために必要な準備期間として設定される。

それがプロのやり方だろう。




ぼくにとっての基礎研究や、臨床医療者たちとの必要以上のコミュニケーション(学会、研究会、画像対比の会……)は、病理診断医としての給料には直接関係しない。

けれども、これらは、ぼくの商売道具である脳を鍛え続けてくれるハードトレーニングになる。

脳というのは筋肉といっしょで、あまりフルタイムで使い続けていると疲弊してしまい、うまくコンディションを整えられなくなる。だから、オフを与えることも必要だ。ただしそのオフは、ある程度計算して与える。

プロ野球選手がシーズンオフにずっと遊んでばかりではないように。

そして、遊ぶのとおなじくらいの時間をかけて、研究をする。

遊ぶ以上に長い時間をかけて、コミュニケーションをとる。




これはぼくの主観だが、脳は筋肉より、「もつ」気がする。

あくまで自分のために、脳に負荷をかけ続ける上で、研究とコミュニケーションはもってこいだ。

読者の中に病理医がいるならば、試してみてほしいなあと思う。

2018年5月11日金曜日

専門は対比病理学

三寒四温とはいうが、たいていの場合、四には気づかず、三に思わず恨み節が出る。

冬に比べればだいぶ暖かくなった。無理すればコートだっていらない。雪もすっかり解けた。それでも、本州からの便りに「汗ばむ陽気」だとか「海開きが待たれる」などと書かれていると、こっちはまだまだ寒いのになあ、と思わず襟を立ててしまう。暖かくなっているという事実に喜ぶよりも、まだどこかと比べると寒いという事実を悲しむほうが多い。

要は、比較の問題だ。

シベリアに友人を作ればよいのかもしれない。



「私だって大変なんだからね」が口癖の知人。ひとりに絞れない。幾人もいる。誰もが自らを人と比べてやっている。

ぼくはどうか。ぼくもそうだ。ぼくの仕事はここが人と違う、ここは人といっしょだ、そんな話を年中やっている。そんな気がする。

比較のない場所で暮らそうと思えば、ぼくらはいったいどこに行けばいいのか。

「あなたはあなた、わたしはわたしでいいのよ」とやさしく声をかけてくれる小さな飲み屋のおかみ、というのに中年はたいていあこがれる。需要があるということがじわじわとわかる。

けれどぼくは比較がある場所でやっていかなければいけない。なんだかそういう気がしてならない。

たとえば、人と自分とを比べながら、自慢でも自虐でもない、ちょっとした詩みたいなコメントばかり貼り付けていくような暮らしができるだろうか。そういえば俳句を詠む人というのは、たいていそういうことをやっているのではなかったか。




ネプリーグをみていたら、「50代、60代の男性で、新しいことをはじめようとしている人の割合は何パーセント?」というクイズが出てきた。確か答えは60%ちょっとだったと思う。

そうだなあ、50になっても60になっても、新しいことをはじめたいと思うのはわかる気がするなあ。

だって人と比べてずっとやってるんだから、新しいことでもはじめない限り、比較の枠から飛び出ることはできないだろうからなあ……。



そんなことを思いながら、ふと気がついた。

ぼくは60%という数字をもとに、「新しいことをはじめる人」と「新しいことをはじめる気は無い人」を比べてしまっていた。

2018年5月10日木曜日

病理の話(198) いま歯の中にある危機

かつて、歯医者で「あーこの虫歯はだいぶ深いんで、もしかしたら神経を抜かなきゃいけないかもしれません」と言われたとき。

「神経抜くってすごいな」

と思った。そしたら、歯医者がこういうのだ。

「神経は抜かないに越したことはないんですよ。神経を抜いてしまうと、歯に栄養がいかなくなりますからね。色も少しずつ悪くなってしまうし」

ふーん、って感じだった。神経抜いたら痛みもなくなるから便利なんじゃねぇの、くらいにしか思っていなかった。

虫歯は神経の手前で止まっており、ぎりぎり神経を残すことができたのだが、そのときもまた歯医者がこう言った。

「ぎりぎり神経を残せました、よかったですね」

よかったのかな? ぼくにはそれがわからなかった。まあ、よかれとおもってあるモノを取っちゃうのはなんとなくよくないんだろうな、くらいの感覚だった。



それから何年も……何十年も経った。

先日、歯周病検診で歯医者を訪れ、歯石を取ってもらい、「もっと長時間磨いてください」みたいなことを言われ、その日の夜に長々と歯を磨いているときに、稲妻のように疑問がおりてきた。




「神経抜いたら歯に栄養がいかなくなる……とは……? いつから神経は栄養を運ぶ管になったのか……?」




もちろん歯医者に悪気はない。いちいち一般人に解剖とか病理の説明などしない。

でも、「神経抜いたら栄養がいかない」というのは、医学的にはふしぎな表現である。

ところが子供の頃から当然のように「神経抜いたら栄養がいかない」を聞いていたぼくは、これを「ふしぎなこと」と思わず、流してしまっていた。

「歯の神経を抜くと歯の色が悪くなる」とはなんだ? 神経はいつから細胞の代謝にかかわるシステムになったのか?




今でこそ芸能人は歯をかんぺきに白くしてからテレビに映るようになってしまったが、昔は違った。時代劇だったか落語だったかをテレビで見ていたとき、祖父が言った。

「こいつ、虫歯で歯の神経抜いてるから、歯が死んでる。色でわかる。こうならないようにちゃんと歯をみがけ。」

そうかそうか、と、納得していた。

けど待ってくれ。

神経には栄養運搬の仕組みはないはずだぞ。

今さら気になった。

病理医ったってこの程度なんだよなあ、子供の頃からの思い込みってのはしみついてなかなか離れない。

苦笑しながら教科書を探す。

さて、どの教科書をみればいいのかな。探すのにほねがおれた(歯だけど)。




とりあえず本格的な口腔解剖学の本は手元にない。久々に「岡島解剖学」でもみてみるかな、と、本棚のすみっこから引きずり出してくる。ほこりをはらう。

ええと、骨、骨……あれ、ない。歯ってどこに載ってるんだっけ。

V. 内臓学, Splanchnologia, Splanchnology
 [1] 消化器
  A, 前腸―頭側部
   3.歯 ...486

……歯って(岡島だと)内臓学に分類されるのか……まあ、口腔だからなあ。




歯は……根本に歯根管という穴があいていて……そこから歯のかみあわせ面に向かってトンネルができており……トンネルの中は途中で少し広がって部屋のようになっていて……歯髄腔(しずいくう)というスペースを作る。

「歯の血管、神経、リンパ管等は歯髄腔内に多量に存在し」

みつけた!



そういうことか。



レントゲンで歯の中に黒く写っているものを、歯医者は簡便のために「神経ですね」とかいってたけど、あの黒っぽいところは本当は「歯髄腔」であり、神経だけじゃなくて血管とかリンパ管などが豊富にあるんだ。

だからそこを「抜く」というのは、何も神経1本を大根みたいに引っこ抜くだけじゃなくて、中にある血管とかを全部つぶすことになるんだ。

歯にも栄養が必要で、栄養をもたらしているのは歯医者が単に「神経」と呼んでいる場所に存在する細かい血管なんだな。





なにを楽しそうに調べておるのか、とお怒りの方がいらっしゃるかもしれないので先に謝っておくしいいわけを書いておく。

ぼくは最近、「非医療者のきもち」が少しずつわからなくなってきているところがある。

医学を学んだために、もはや自分では経験しなくなってしまった「勘違い」というものが、そう簡単には思いつけなくなっている。

だから、「歯の神経を抜くと栄養が」みたいな話を「かんちがい」していた自分をきっちり記録しておきたいのである。

2018年5月9日水曜日

5年手帳でやっててちょ

ようやく桜が咲き、ぼくは大学の講義に向かう。

生徒たちの年齢はぼくのおよそ半分くらいになっている。

昨日、大学の前にあるクラーク亭というレストランでチキンカツを食べた。少し量が多かった。

移転こそしたものの学生時代にも通っていたレストランだ。長年食べていたメニューが少し重くなったとき、自分が相対的に軽くなったのだなと思う。

4月は新歓のシーズンだ。レストラン内に「18時以降全面禁煙」という張り紙が貼られ、新入生を連れてメシをおごる学生たちが大挙してかつての喫煙ルームを埋め尽くしていた。

新入生たちはみな行儀良く座って、まだ入るかどうかも決めていないサークルの先輩の話を聞いている。先輩たちはたいてい同時にしゃべっている。誰かひとり、決まったカリスマがしゃべる、みたいな決まりはないのだ。新入生たちがきょろきょろするのは、社会がいっせいに語りかけるからだ。

今年はじめて思った。自分の思い出の解像度が、深刻に低い。真横に座っている若者たちのトークに、自分の記憶をうまくマージできなくなっている。

……今、先輩が、「数学はさー」って言った!

「数学はさー」

「数学はさー」

これほど大学生にぴったりの言葉はない。

ソースをつけずにマスタードだけで食べていたチキンカツに、今さらだがソースをかけた。味を濃くして、五感のぼやけを少しでも回復したかった。




大学生との距離をだいぶ感じるようになった。あたりまえだ。気づくのが遅いくらいである。

昨年も使った講義プレゼンを、大幅に作り直す。

若者の言葉をだいぶ削る。

ぼくが学生だったころ、若い顔をして自分たちにすりよってくるタイプの講師からは、あまり多くを学べなかった。

いいから学究の姿勢をみせてくれ、と思った。

世間話ばかりするタイプの講師があまり好きではなかった。そんなことを聞くために大学に入ったんじゃない。

自分の留学経験をもとに、ニッチな研究成果の話しかしない講師も嫌いだった。各論のすみっこだけ細かく教えて何がしたいのか。

でも、「世間話をするし自分の研究成果だって語るんだけれど尊敬できるタイプの講師」というのもいた。

ぼくは楽天家なのだろう。「自分がもし、将来講義を担当するならば、世間話をしても受け入れられるくらい好かれる講師でありたいなあ」みたいな邪念をもっていた。

で、今年、そういう邪念がどうも鬱陶しくなった。

だからプレゼンを作り直した。

「講義をおもしろおかしくやるタイプの講師」というお役目は、そろそろ、ぼくよりもう少し若い人におまかせしよう。




クラーク亭で「20世紀少年」を読みながら、ぼくはなかばうなだれていたのだと思う。

大学時代に通っていた居酒屋にも、もう何年も顔を出していない。

自分が学生だったころ、40近いおじさんが、なじみの飲み屋に「やあマスター久しぶり」といって入ってくるのを見て、ぼくは、「学生街の飲み屋におっさんがくるのかよ」と思っていなかったろうか。

居酒屋のカウンターにひとりで座って野球をみている初老の男性をみながら、「もっとおっさんに見合った飲み屋にいけばいいのに」と思っていなかったろうか。





……思っていなかった、かもしれない……。

ぼやけてにじんだ記憶の上に、あとから卑屈で絵を描き足しただけかもしれない。

ま、考え込みすぎだな。年齢はどうあれよいことをしゃべれば伝わるだろう。

どうせ思った通りのやり方で受け入れてもらうしかないのだ。

あまり自分の加齢を理由に自分を縛ることはないな。

よし、がんばって講義をしよう!






このような文章を最後に付け加えるだけで、少なくともブログ全体の不穏が少しおさまり、のちに記事を自分で読むことで、「なあんだ、この頃の俺もちょっと迷ったりしたけど、最後にはきちんと前に進んだんだな!」くらいの勘違いをすることだろう。

ぼくは自分の記憶の賞味期限をあまり信用していない。

それを利用して、ときおり、日記とかメモとかブログにうそを書く。

記憶が薄れた頃にそれを読むと、「ほんとうの記憶」のように勘違いして、自分の気分が少しよくなる。

そうなることを知っている。

2018年5月8日火曜日

病理の話(197) 病理診断は絶対であるから

病理診断にどれだけ時間がかかるか、というのは、患者からすると大きな問題である。

自分からとりだされた一部分が、がんなのか、がんではないのか。

一刻も早く知りたいと思うのは当然だ。



一方、臨床医は、その患者が一刻一秒を争う状態かどうか、ある程度見極めが付くので、「急いで病理の結果を知りたいけれど、まあ、そこまで大急ぎでなくてもいいよ」というくらいの気分でいることが多い。

いやいや、診断というのは早いほうがいいに決まっているだろう、と反論する方もいるかもしれないが。

病理診断は、その性質上、必ずしも「スピード」を最重要課題とはしていない。

「確実性」こそが第一である。

岸先生も言っていただろう。「ぼくの言葉は絶対だ」と。「ぼくの言葉はすぐ出るぞ」ではない。こんな決め台詞だったらどっちらけである。



医療という不確実な世界で、絶対、とか、100%正しい、ということばはあり得ない、と反論する人がときおりいる。なんと医療の世界にもいる。「フラジャイルは煽りがひどい、絶対なんていうな!」みたいなことを、マンガをろくに読みもしないで言っている人をみたことがある。

けど、病理診断は、ほんとうに「絶対」なのだ。ただし、ニュアンスはちょっと複雑である。

「絶対に正確である」ということではない。

「病理診断を絶対の基準として、今の医療は組み立てられている」という意味だ。



病理が、「Aという病気です」と診断したら、ほかの臨床医がなにを考えていようと(たとえばひそかにBという違う病気ではないかと思っていても)、Aに対する治療がはじまる。

病理の結果があっている、間違っているという検証は、なかなか行われない。だって、病理が基準だから。

「病理診断は絶対」だと思われているから。

診療においては、病理を正義としないと先に進めない場面がある。

特に、がん。

がんの組織型については、臨床医が他の手段で「反論」できることはほとんどない。



そう、病理診断が「絶対」というのは、「絶大な影響力がある」という意味に近い。

「あの上司がダメって言ったら絶対だめなんだよねー」みたいなかんじだと思って頂ければいい。



病理医は、ときに、「難しい、わからない」とはっきり述べる「勇気」を持たなければいけない。

疑問を残したまま、「この病気は、Aです」と断言してしまうことは、病理診断を基準として行われている診療の世界では、もはや犯罪に等しい。

ときに、今ある情報だけではわからない、と言い切ることも必要だ。そして、それを丁寧に臨床医に説明することが肝心だ。

なぜ悩ましいのか、どういう推論プロセスを経て悩んでいるのか。追加検査で何をしたら、答えに迫れるか。

病理医がこれほど慎重であればこそ、臨床医も病理医に「絶対の基準点」を与えることができる。




病理のことをよく知っている臨床医は、病理の結果について、

「急いで知りたいのはやまやまだけど、まあ、確実に決めてくれた方がいいな」

というくらいの気分でいる。そして、たとえば病理診断を待っている患者に、このような説明をする。

「……今日の検査は終わりです。この後、お帰り頂けます。そして、次に病院にお越し頂いたときに、病理診断の結果をお伝えいたします。結果をみながら、今後の治療方針を、あなたと私で一緒に決めます。

では、次に病院にお越し頂くタイミングですが……病理診断というのは、1週間とか10日くらいかかることがあります。もちろん、それより早くわかれば、結果をすぐにお伝えすることもできます。ただ、できれば電話などではなく、外来をちゃんと予約して、一緒に病理報告書をみながら、しっかりご説明したいのです。結果によって、今後の治療方針も変わってきますので。

ということで、おそらく確実に診断が出ているであろう、2週間後に、また病院に来ていただく予約を入れるということで、いかがでしょうか?」



帰宅した患者は、たとえば、家族に説明する。

「今のところ、急いで治療する必要がないから、2週間後にこいってさ。そこで病理の結果を教えてくれるってさ」

その家族が、思う。

「病理診断って2週間も待つんだなあ……」




いや、ま、ほんとはもう少し早く結果が出ることもあるんです。

HE染色だけで「絶対Aだ」といえる場合もありますのでね。

けれども、病理診断は、最後の砦みたいなもので。

慎重に慎重を期さなければいけないのです。

慎重のために染色を追加したりしますと、検体の処理や染色に時間を要します。化学反応は、人間がいくら努力しても早めることができません。ぼくらが精一杯努力しても、所要時間を縮められない場合もあります。

2週間お待ちいただくことも、場合によっては1か月お待ちいただくことも、あります。どうもすみません。

2018年5月7日月曜日

いやーほんとによいものですね

ワイヤレスのイヤホンがやってきた。やったやった。

さっそく装着……したかったが、まずは充電がいるという。そうか、イヤホンというのは電気を食うんだった。有線イヤホンでは考えたこともなかった。便利を手に入れるためにひとつ不便を支払う。

充電には2時間半ほどかかるらしい。けれどもまあ、40分くらいでためしに聞いてみることにした。

音が少しカシャカシャ聞こえる気がするが、まあ値段を考えるとそんなものだろう。

ああ、思ったよりずっと快適だ。ぼくはとてもいい気分になった。

デスクで2方向にPCを置いているぼくは、体の向きを頻繁に変えて仕事をする。有線のイヤホンに慣れきっていたぼくは、知らず知らずのうちに、体の向きを変えるときにイヤホンのコードを払うような仕草が身についていた。これからはもう、この頭の周りの蠅を追うような動きはしなくていい。



気がついたら、デスク周りの多くのものがワイヤレスになっている。マウス、キーボード、イヤホン。

そういえば、スマホだって、ある意味、ワイヤレスPCではないか。朝になると充電ケーブルから引っこ抜いて、一日持ち歩いている。

自分のPCやスマホ用に使っているモバイルWi-Fi。これもワイヤレスだ。

だんだん、身の回りの家電製品から、ケーブルがなくなっていく。その分、電池とか充電が忙しくなる。




なあんて、てきとうなことを書いているうちに、ふと今気づいたけれど。

そもそもぼくという人間も、今はワイヤレスみたいにふらふらしているけれど、元々、有線だった時期がある。

母のお腹の中だ。臍帯(さいたい)で、胎盤に接続して、栄養を得ていたころがあったんだ。

そうだそうだ、ぼくらも、生まれたときにワイヤレスになったんだ。だからそこから、定期的にメシ食って充電しなきゃいけないんだった。

そうかそうか。





イヤホンからビープ音。さっき充電を十分にしなかったから、もう切れてしまった。やはりワイヤレス機器というのはきっちり規格通りに充電しないといけない。音楽をあきらめ、もちろん、メシのメニューを考える。今後はおそらくそういうリズムでやっていく。

2018年5月2日水曜日

病理の話(196) ごはんのこと

ぼくは朝食は家で食べる。

昼食は、毎日ボスと一緒に食堂で食べている。A定食かB定食のどちらかだ。460円。主食、椀物、主菜のほかに小鉢が2つつく。小鉢というのは健診センターで出されているお弁当の「残り」のようだが、味に支障があるわけでもなく、安くてうまい。

ということで、朝、昼は、ほぼ同じ時間に同じ場所で食べている。

夕食だけ、ばらばらだ。夕食の時間と場所は毎日異なっている。

職場でおにぎりで済ますこともあるし、帰る途中にクラーク亭(北海道大学の前にあるレストラン)でチーズバーグを食べることもあるし、帰宅するまでがまんして、自宅でプルコギ丼とか醤油ぶっかけうどんを作って食べることもある。



普通のドクターというのは、もう少し食事がたいへんだと聞く。患者を相手にする仕事だ。患者が待っている、となれば、なかなか自分の思い通りの時間に昼食はとれまい。

それに比べて病理医というのは気楽である。ライフサイクルのうち、朝食と昼食が落ち着いているというのは、なかなか精神衛生上よいことだ。




……こういうことを書くと。

お前も医者ならのんびり昼飯なんか食ってないで、さっさと診断をあげろ! 病理診断を今か今かと待っている患者もいるんだぞ! と、お怒りの人が出てくる。

ぼくも、それくらいわかっている。

「今か今かと待っている人」の病理診断をほっぽらかして飯を食うことはない。

ぼくらは「患者が病理診断を早く欲しているかどうか」について、臨床医から逐一情報を得ている。

分単位で診断をあげてほしい人を放っておいて昼飯は食わない。

この仕事、実は、「週単位で待てます」、とか、「そんなに急いで診断を出さなくても今後の方針は決まっています」、という人をかなり相手にしている。

少なくとも大半の「ノルマ」は数日単位で片付けていけば十分なのだ。そういう性質の仕事だ。

だから、自分の決めた時間で昼飯を食える。

まあ、ノルマというのは後回しにするとそれだけ「たまっていく」わけであり、結局一日のどこかでは取りかかった方がよいのだけれど。

しわよせはたいてい、夕食のころに訪れるのだけれど。




夕食の時間を忙しくするくらいなら、午前中からばんばん働けばいいじゃない、という考えの人も、もちろんいる。それは好きにすればよい。

ただ、ぼくの場合は、「邪魔されたくない仕事を集中させている時間」はもっぱら夕方から夜だ。

逆に午前中は、「ひとつひとつの仕事にかかる時間が短くてインターバルが小刻みに挟まる仕事」をすることにしている。

別にぼくが午前中にツイッターをしたいからこうなっているわけではない。

午前中は、「電話による問い合わせ」が多いのだ。こまかな事務仕事も頻発する。だから、2時間以上の集中を必要とする仕事をするには向かないなあ、と思っている。

こればかりは個人の好みかなあ、と思う。




病理の話っていうかこれ病理医の話だね。

2018年5月1日火曜日

横浜の話はしていません

ブログはだいたい公開の1~2週間前に書いているのだが、公開前に何度か見直して、手直しをする。それがくせになっている。

ところが、先ほど公開したある記事(これを読んでいる皆さんからすると、1~2週間前の記事ということになる)は、書き終えてから公開するまでの間に一度も目を通さなかった。書いたっきりで、手直しをしなかった。

ちょっと忙しかった、というのもあるし、たまには勢いだけで書いた記事を投げてもよいだろう、くらいの気分でいた。

ブログは平日の朝5時すぎに自動投稿されるようになっている。一方で、更新告知は手動である。毎朝、身支度をして家を出る前に、ツイッターでブログ更新の告知をしている。

出勤してから、きちんとツイートされていることを確認。

そこであらためて、ツイートのリンクをクリックし、自分の書いた記事を読んでみた。

……驚いた。まったく頭に入ってこない。

文章の順番がめちゃくちゃだ。重複表現がいくつかある。省略された言葉が多い。

一度も推敲しない文章というのはつまり、こういうことなのだ。あわてていろいろと手を加えた。公開後、すでに1時間くらい経っていた。記事はまるで別ものになった。書いている内容や言いたいことというのは全く変わっていないのだが、表現をいちから整え直して再公開した。





脳から発せられた単語をそのまま順番にキータッチすると、発した本人であるぼくですら、うまく意味がとれない、ということ。

そうなんだよな、とひとりごちる。

ぼくは、成長の過程で少しずつ、「ふんわりと思っていること」を、「誰が聞いてもなんとなく意味がとれる内容」に整形するための技術を学んできた。

その技術は一般に国語と呼ばれたり、あるいは文章術とか会話術などと呼ばれたりする。みんなも学ぶ。ぼくも学んだ。

だから、てっきり、40にもなろうというおっさんなどは、そういう国語的なものはほぼ完成しているのだと勘違いしていた。

さすがにそろそろ、思ったことをすらすら書けるようになっているのだろう、と。

そんなことはまったくなかった。





「あのときああ言ったじゃないか!」みたいな、言った言わない論を毎日のように目にする。

脳同士を直接接続できないぼくらは、自らのきもちを言葉にする段階で、すでに「ひとつの翻訳」をし終えている。

ぼくの翻訳の精度は、少なくとも同時通訳的なスピードを要求される場面では、未だにあまり高くないようだ。

ぼくの口や手から出ることばたちは、真の意味の「母国語」ではないのかもしれない、とすら思えた。

だったら会話は国際交流だ。

ブログの更新は国際記事の投稿である。

生きている間中、翻訳からは逃れられない。




そういえば細胞も、DNAから転写翻訳とやっているんだったっけ。

実はDNAも、自分のプログラムからできあがったタンパク質をみて、「ほんとはそういうことじゃなかったんだけどなあ」などと、早朝に頭をかいたりしているのだろうか。DNAというといかにも偉そうな存在だけど、なんのことはない、きっと苦労しているのだろう。いっしょにがんばろうな。