感染症という病気がある。
この病気は、「病原体(細菌とか、ウイルスとか、カビとか)」が人体に住みつくことで引き起こされる。
人類としては、これらの病原体を残らず撲滅してしまいたい。そうしたら、感染症もこの世からなくすことができるだろう。
そんなことはできるのだろうか?
ある1種類の病原体を地上から撲滅させることは、できなくはない。
現に、天然痘ウイルスというのは地球上から撲滅できている。
けれども、ほとんどの細菌やウイルス、真菌などは、ほぼ撲滅できていない。
撲滅できない理由はさまざまだ。細菌かウイルスかによってもそれぞれ異なる。
とりあえず今日は、「細菌」を例にあげて考えてみることにする。
細菌は、まず第一に小さすぎる。次に多すぎる。どこにでもいる……。
そして、もうひとつ、非常にだいじな問題がある。
「よい細菌と悪い細菌を見分けて、悪いやつだけを倒すことが非常に難しい」ということ。
これが実はけっこうでかい。
あるひとりの人の、体の中にいる細菌を絶滅させることは、できなくはない。
超強力な「抗生物質」を作り上げて、人体に投与すればいい。
ところが、そんなに強い薬を使ってしまうと、病気の原因になっている細菌だけではなく、皮膚とか腸などの中に元から住んでいた「善良な」細菌を全滅させてしまう。
すると困ったことになるのだ。
元から住んでいた「常在菌」たちは、そもそも、人体にとってバリアのような役割を果たしてくれている。常在菌がいるからこそ新たな病原体の侵入を防ぐことができる。さらに、バリアだけではなく、実は栄養吸収とか栄養産生の役割までも担っているのではないか、とさえいわれている。
悪い細菌だけを倒せるならばともかく、人体にとって役に立っている細菌まで倒してしまうのはまずい。
たとえ話をする。
東京ドームで野球の試合が開催されている。伝統の巨人阪神戦だ。
ここにテロリストが侵入し、どこかに爆弾をしかけるらしい。
テロリストは20人くらいいるという。こまった。どうする?
ここでSAT(特殊急襲部隊、だっけ?)が提案する。
「テロリストを確実に全滅させる手段が1つあるぞ。東京ドームに火を放ってしまえばいい」
そんなことを言いだすSATはクビだろう。
テロリストだけじゃなく、50000人くらいの観客がまるこげだ。なにを考えておるのだ。
感染症を撲滅するためには、「悪い奴だけを選んで攻撃する手段」が必要だ。
とりあえず強すぎる薬では解決にならない。
微生物のうち、病原性の微生物だけを選び取って利く薬、というのがいる……。
これが難しい。
テロリストといっても人間だ。
善良な野球ファンと同じ、人間なのだ。
いかにもなリーゼントに入れ墨、サングラスで武装しているテロリスト、なんてのは果たしているだろうか?
まあそんなやつは入り口で警備員に止められてしまうだろう。
たいていのテロリストは普通の恰好をしているはずだ。
「テロリストだけをうまく見つけ出し攻撃する薬」が、極めて難しい機能を必要とするだろうことは、おわかりいただけるかと思う。
感染症だけに限らない。
「がん」だって、同じような難しさがある。人体からがん細胞を全滅させる一番かんたんな方法は、超強力な抗がん剤を大量投与することだ。ただしこの場合、正常の細胞も大ダメージをくらう。
だからぼくらは、がん細胞だけを見極めて、そこだけ攻撃する手段を探す。
体内に潜んでいる悪人は、善良な人とよく似ている。
こまかな違いを抽出して、「お前が悪だ」ときっちり指摘することが必要だ。
病理学とは、正常の細胞や正常の微生物などをきちんと学ぶところからスタートする。
わずかな違いに意味があるかどうかをじっくり考える必要がある。