2018年5月28日月曜日

病理の話(204) 学術とぼくらの距離

たしかになあ……。患者のことを考えている時間よりも、学問のことを考えている時間のほうが、少しだけ長いかもしれない……。

そんなことをふと思った。




病理医は、病院の中でひたすら学問を続けていく仕事だ。患者から採取されてきた臓器の一部分、あるいはひとつの臓器ぜんぶ、ときには人体すべて(解剖検体)を、見て、考えて、評価していく。

医療行為には違いない。

けれども、やっていることは極めて学問に近い。医者のイメージじゃない、学者のやることだ。

見て、考えて、書き表す仕事。



もちろん医療は学問だけで成り立っているわけではない。病院の中にはさまざまな仕事がある。

「VS ヒューマン」としかいいようのない、お勉強ができることよりも人当たりがよく思いやりがあることのほうがよっぽど重要視される場面もいっぱいある。

というかそっちのほうが有名だろう。ぼくはテレビからヒューマンドラマという惹句が聞こえてくると腰の骨がはずれる持病にかかっているが、結局の所、医療とはヒューマンドラマである。

それでも、ヒューマンの輪から片足を外して、ずーっと学問に専念する部門というのは、やっぱり必要だろうな。みんなわかっている。必ずどこかに学問をやる人がいなければいけない。医療の根幹を支える医学は、科学なのだから。

わかっているけれど。

「誰かがやらなければいけない仕事」を、「わざわざ自分がやろう」と思うかどうかはまた別の話だ。




たった一度しかない人生で、せっかくとった医師免許を、患者のためじゃなくて学問に捧げるなんて、もったいなくないか?

この質問。というかツッコミ。何千回聞いたろう。

「いくらなんでも千は多いでしょ」と思うか?

ぼくにはフォロワーが89000人いるんだ。




なぜ医者になれたのに、医療をしないことを選んだのか、という疑問に、普遍的に答えることは難しい。

病理医になる人が少ない理由の一端も、たぶんこのへんにある。

でも、ぼくのなかには、いちおう答えがある。

医師免許を持った科学者になれる幸運を、過小評価しなかっただけのことだ。

学者になりたい人は、病理医という選択肢を知って欲しい。ここはパラダイスだ。学者でありながら給料をもらえる。




それでも、ほかの医療者たちは口々にいう。

「すばらしいお仕事ですよね。病理医の方々ががんばってくださっているから、我々がきちんと医療をできる

ぼくらはいつだって医療からはちょっぴり仲間はずれだ。

そしてぼくは元来、ちょっぴり外れたところが落ち着く性分であり、同様の方々に多くフォローされている。