ようやく桜が咲き、ぼくは大学の講義に向かう。
生徒たちの年齢はぼくのおよそ半分くらいになっている。
昨日、大学の前にあるクラーク亭というレストランでチキンカツを食べた。少し量が多かった。
移転こそしたものの学生時代にも通っていたレストランだ。長年食べていたメニューが少し重くなったとき、自分が相対的に軽くなったのだなと思う。
4月は新歓のシーズンだ。レストラン内に「18時以降全面禁煙」という張り紙が貼られ、新入生を連れてメシをおごる学生たちが大挙してかつての喫煙ルームを埋め尽くしていた。
新入生たちはみな行儀良く座って、まだ入るかどうかも決めていないサークルの先輩の話を聞いている。先輩たちはたいてい同時にしゃべっている。誰かひとり、決まったカリスマがしゃべる、みたいな決まりはないのだ。新入生たちがきょろきょろするのは、社会がいっせいに語りかけるからだ。
今年はじめて思った。自分の思い出の解像度が、深刻に低い。真横に座っている若者たちのトークに、自分の記憶をうまくマージできなくなっている。
……今、先輩が、「数学はさー」って言った!
「数学はさー」
「数学はさー」
これほど大学生にぴったりの言葉はない。
ソースをつけずにマスタードだけで食べていたチキンカツに、今さらだがソースをかけた。味を濃くして、五感のぼやけを少しでも回復したかった。
大学生との距離をだいぶ感じるようになった。あたりまえだ。気づくのが遅いくらいである。
昨年も使った講義プレゼンを、大幅に作り直す。
若者の言葉をだいぶ削る。
ぼくが学生だったころ、若い顔をして自分たちにすりよってくるタイプの講師からは、あまり多くを学べなかった。
いいから学究の姿勢をみせてくれ、と思った。
世間話ばかりするタイプの講師があまり好きではなかった。そんなことを聞くために大学に入ったんじゃない。
自分の留学経験をもとに、ニッチな研究成果の話しかしない講師も嫌いだった。各論のすみっこだけ細かく教えて何がしたいのか。
でも、「世間話をするし自分の研究成果だって語るんだけれど尊敬できるタイプの講師」というのもいた。
ぼくは楽天家なのだろう。「自分がもし、将来講義を担当するならば、世間話をしても受け入れられるくらい好かれる講師でありたいなあ」みたいな邪念をもっていた。
で、今年、そういう邪念がどうも鬱陶しくなった。
だからプレゼンを作り直した。
「講義をおもしろおかしくやるタイプの講師」というお役目は、そろそろ、ぼくよりもう少し若い人におまかせしよう。
クラーク亭で「20世紀少年」を読みながら、ぼくはなかばうなだれていたのだと思う。
大学時代に通っていた居酒屋にも、もう何年も顔を出していない。
自分が学生だったころ、40近いおじさんが、なじみの飲み屋に「やあマスター久しぶり」といって入ってくるのを見て、ぼくは、「学生街の飲み屋におっさんがくるのかよ」と思っていなかったろうか。
居酒屋のカウンターにひとりで座って野球をみている初老の男性をみながら、「もっとおっさんに見合った飲み屋にいけばいいのに」と思っていなかったろうか。
……思っていなかった、かもしれない……。
ぼやけてにじんだ記憶の上に、あとから卑屈で絵を描き足しただけかもしれない。
ま、考え込みすぎだな。年齢はどうあれよいことをしゃべれば伝わるだろう。
どうせ思った通りのやり方で受け入れてもらうしかないのだ。
あまり自分の加齢を理由に自分を縛ることはないな。
よし、がんばって講義をしよう!
このような文章を最後に付け加えるだけで、少なくともブログ全体の不穏が少しおさまり、のちに記事を自分で読むことで、「なあんだ、この頃の俺もちょっと迷ったりしたけど、最後にはきちんと前に進んだんだな!」くらいの勘違いをすることだろう。
ぼくは自分の記憶の賞味期限をあまり信用していない。
それを利用して、ときおり、日記とかメモとかブログにうそを書く。
記憶が薄れた頃にそれを読むと、「ほんとうの記憶」のように勘違いして、自分の気分が少しよくなる。
そうなることを知っている。