2018年5月15日火曜日

会ったことがなく予定もないです

エモだバズだとこしゃくだな、人生どっかエモくて一度はバズるんだよ、と思いながらいろんなブログを読んでいた。

最近よく思うことは、きっと燃え殻さんみたいな人がぼくの人生を歩んでいたらぼくの経験してきたエピソードがエモくなるだろうし、燃え殻さんみたいな人が早朝にNHK北海道のアナウンサーをやって地方のニュースを紹介していたらそのニュースもバズるんだろうな、ということだ。語られる人によって価値が決まる体験、というものがこの世の中にはあるように思う。

そしてぼくはさらに強く思うのだが、燃え殻さんの文章力とか燃え殻さんの技術がすばらしいからエモくてバズるんじゃない。燃え殻さんの技術をすべて学んでまるまる用いたとしたって、それは燃え殻さんの文章には決してならない。

ぼくは燃え殻さんの書いた文章を読んで「すばらしい技術だ」とか言って文章表現を語り出す人はいろいろわかっちゃいない、とすら思っている。

すばらしい技術を持っている人が燃え殻さんだからぼくは揺さぶられる。




たとえばぼくがルーク・スカイウォーカーだとして、日記を書いてブログに載っけていたら、スターウォーズという壮大なバズりは生まれなかった。

あれは映画の達人たちが映像にしたから、世に「こんなフィクションがあったのか!」と楽しく受け入れられた。

それはもう間違いない。

もともとそこにあったものに意味を与えるためには、語り手に技量が備わっている必要がある。その意味で「メソッド」は存在する。

けどぼくはその上で思う。メソッドでバズる、なんてことはあり得ない。




最近強く自戒していることもある。

「メソッドを探す人」のことは絶対に笑ってはいけない、ということ。

自分のやりたいことを達成するためには手段が必要だ。その意味でメソッドは運転免許みたいだし、地図みたいなものでもあるし、鉄道のレールみたいなところもある。他人のレールをうらやんで、乗り入れ線を探す毎日だ。

メソッドを学ばないとことばがそもそも届かない。それは本当だと思う。




けど、エモとかバズというのは、ことばが届いた先に生まれることだ。メソッドはことばを届けるまでの段階で備えてあるべきマナーのようなもの。

どこかにたまに出現する、億兆の人々の心根をぐしゃぐしゃに握りつぶすことができる運命的な人間(燃え殻さんを思い浮かべればいい)が、自分のことばを少しだけ人に届きやすくするために整備しおわっているべきもの。

それが文章術だと思う。




「エモい文章を書いてバズるための文章の書き方を学ぶ」というのは、

「美しい土地に行って風景を写真に撮るために、運転免許をとり地図を用意する」のに似ている。

自動車免許で写真は撮れない。地図を見てたどりついても写真が撮れるとは限らない。

燃え殻さんをほめようと思ったら、「燃え殻さんが文章を書く人でよかった」以外の言い方はなかなかできない。