人生はさほど短くないので、人は無意識に人生を短く生きるための技を手に入れる。
一緒に歩む人に「家族」と名前をつける、などというのはまさに人生を短縮するワザなのだ。
毎朝同居人と顔を合わせる度に、「おはよう、今日も愛情と信頼と利害関係と社会関係でうまく結びついたぼくたちは昨日と同じように仲良くやっていったほうが少しだけうれしいよね。」なんて声をかけなければいけないとしたら、なんともかったるい話ではないか。
そこを「家族」のひと言でギュンっと短縮するからこそ、1日にはゆとりが生まれ、何もしていない時間が生まれ、何も考えていない時間が生まれ、何も考えていなかった時間はあとから振り返ると矢のように過ぎ去っているように感じる。
すべての瞬間に思考を止めていなかったら、人生はほとんど無限とも思えるくらいに長く感じるはずなのだ。
だってぼくを含めたほとんどの人にとって、思考というのは時間の流れと隔離された無限のような広がりを有するものだから。
ぼくを含めた大多数の人によって、「もうそれ以上考えなくていいよ。」と、名前をつけて放っておいているものがあるからこそ、人間はときどき考えるだけで日々をやっていくことができる。
ヴァレリーは、デカルトの変奏とうそぶきながら、言った。
「私はときどき考えるので、私はときどき存在する。」
ときどきしか存在しない人生は、短くなる。
名前をつけまくる。
一度回した思考をもう一度回さなくて済むように。
名前をつけてつけてつけまくる。
そうすることで、考える時間が少しずつ短くなり、存在する時間が少しずつ短くなり、人生はあっという間に過ぎていく。
「命短し恋せよ乙女」というのはまったく失礼なフレーズだ。
思考の深淵に潜む乙女にとって命は無限大である。
そしてぼくらはときどき乙女のフリをして、それでも名前をつけてしまうので、命は短く、恋をせよと激詰めされることになる。