2018年5月1日火曜日

横浜の話はしていません

ブログはだいたい公開の1~2週間前に書いているのだが、公開前に何度か見直して、手直しをする。それがくせになっている。

ところが、先ほど公開したある記事(これを読んでいる皆さんからすると、1~2週間前の記事ということになる)は、書き終えてから公開するまでの間に一度も目を通さなかった。書いたっきりで、手直しをしなかった。

ちょっと忙しかった、というのもあるし、たまには勢いだけで書いた記事を投げてもよいだろう、くらいの気分でいた。

ブログは平日の朝5時すぎに自動投稿されるようになっている。一方で、更新告知は手動である。毎朝、身支度をして家を出る前に、ツイッターでブログ更新の告知をしている。

出勤してから、きちんとツイートされていることを確認。

そこであらためて、ツイートのリンクをクリックし、自分の書いた記事を読んでみた。

……驚いた。まったく頭に入ってこない。

文章の順番がめちゃくちゃだ。重複表現がいくつかある。省略された言葉が多い。

一度も推敲しない文章というのはつまり、こういうことなのだ。あわてていろいろと手を加えた。公開後、すでに1時間くらい経っていた。記事はまるで別ものになった。書いている内容や言いたいことというのは全く変わっていないのだが、表現をいちから整え直して再公開した。





脳から発せられた単語をそのまま順番にキータッチすると、発した本人であるぼくですら、うまく意味がとれない、ということ。

そうなんだよな、とひとりごちる。

ぼくは、成長の過程で少しずつ、「ふんわりと思っていること」を、「誰が聞いてもなんとなく意味がとれる内容」に整形するための技術を学んできた。

その技術は一般に国語と呼ばれたり、あるいは文章術とか会話術などと呼ばれたりする。みんなも学ぶ。ぼくも学んだ。

だから、てっきり、40にもなろうというおっさんなどは、そういう国語的なものはほぼ完成しているのだと勘違いしていた。

さすがにそろそろ、思ったことをすらすら書けるようになっているのだろう、と。

そんなことはまったくなかった。





「あのときああ言ったじゃないか!」みたいな、言った言わない論を毎日のように目にする。

脳同士を直接接続できないぼくらは、自らのきもちを言葉にする段階で、すでに「ひとつの翻訳」をし終えている。

ぼくの翻訳の精度は、少なくとも同時通訳的なスピードを要求される場面では、未だにあまり高くないようだ。

ぼくの口や手から出ることばたちは、真の意味の「母国語」ではないのかもしれない、とすら思えた。

だったら会話は国際交流だ。

ブログの更新は国際記事の投稿である。

生きている間中、翻訳からは逃れられない。




そういえば細胞も、DNAから転写翻訳とやっているんだったっけ。

実はDNAも、自分のプログラムからできあがったタンパク質をみて、「ほんとはそういうことじゃなかったんだけどなあ」などと、早朝に頭をかいたりしているのだろうか。DNAというといかにも偉そうな存在だけど、なんのことはない、きっと苦労しているのだろう。いっしょにがんばろうな。