2018年10月4日木曜日

病理の話(249) なんべん専門家って書くんだ

今日は少々ばくぜんとした話をする。これはぼくが「今のところ理想的」と考えている、医療の話だ。


1.患者は、自分自身の生活スタイルや、自分自身を楽しく保つ「専門家」である。

2.あるとき、患者は、自分の専門外の理由……「病気」によって、自分の生活や気持ちを保てなくなる。

3.そこで患者は病院にくる。そこには「専門家たち」がいる。

4.まず、受付に、患者の気持ちを最初にうけとめる「専門家」がいる。

5.そこで患者は「専門家」により来院した気分を受け止めてもらいホッとする。

6.次に患者は、自分がどの科にかかったらいいかを判断する「専門家」によって、ある科に連れて行かれる。

7.その科では、最初に話を聞きあいづちを打ち、患者のもつ細かい体調不良のニュアンスをすくい上げる看護師が「専門家」として待ち構えている。

8.さらに、看護師による細かい情報聴取に加えて、診察や検査オーダーの「専門家」である医師が、診察行為を行う。

9.「専門家」である医師の提示をうけて、採血の「専門家」が採血をし、画像検査の「専門家」が画像を作成し、それぞれの部門で「専門的な解釈」がのべられる。

10.聞き取りの「専門家」と検査の「専門家」と画像の「専門家」の意見をうけて、統合及び責任をとることの「専門家」である医師が診断を確定する。

11.治療の際に薬が必要な場合には、薬の「専門家」である薬剤師が力を発揮する。

12.治療の際にリハビリとか身体の調整、日常生活の指導が必要な場合には、理学療法士や栄養士などの「専門家」が力を発揮する。

13.社会的なサポートが必要な場合にはソーシャルワーカーのような「専門家」が。

14.外科手術が必要なら外科医という「専門家」、放射線治療が必要なら放射線科医という「専門家」、抗がん剤が必要なら腫瘍内科という「専門家」が登場する。

15.診療の過程において細胞を直接観察する必要がある場合には、病理医や細胞診スクリーナーなどが「専門家」として役目を果たす。遺伝子・染色体検査のときも同様。

16.以上の「無数の専門家」たちの意見をもとに、支えられながら、最終的に、患者自身の「専門家」である患者本人は、自分の生活を立て直し、自分の精神を楽しませる。




これだけの「専門家」たちが登場する医療は、もはや、

「主治医」

だけではどうにもならない。

「主治チーム」とでも呼ぶべきユニットが患者の周りでさまざまに活躍する必要がある。




「そうは言っても主治医でしょう」と悦に入るのは簡単だ。

主演俳優次第で映画の興行は決まる、みたいな話だ。

患者だって、「ひとりの信頼できる主治医をみつけた」と満足したい日はある。だから主治医というわかりやすい看板は医療にとって必要である。

けれども、それでも、やっぱり、現代の最先端医療は「チーム」で行われる。





なお病理医は、映画に例えるならば「監督」をしている。

こういうと「主治医が監督だろう、俳優もするし監督もするんだよ」と言いたい人が出てくるだろう。

たしかにそういう人もいる。北野武は両方やっている。

一方、黒澤明は、自らは演じなかった。

どちらがいい、という話ではない。

そういうものだ、というだけのこと。

あなたがどの映画にどうやって関わっているか、そこまではぼくはわからない。






まあ蛇足だけれどひとつ付け加えておく。

本当は主治医は主演俳優ですらないと思っている。

主演は患者である。

主治医さまは助演くらいの立場だ。

それも素晴らしい仕事だ。胸を張って欲しい。

ぼくは小さなプロダクションの監督として、本気でそう思っている。