2018年10月31日水曜日

病理の話(258) 切り出し至高論

ある臓器の「切り出し」をしていた。

手術室で採ってきた臓器を、そのまますべてプレパラートにするわけではない。

病気の正体や、広がっている範囲、性質などがよくわかるような「クローズアップすべき場所」をきちんと指定して、その部分だけをプレパラートにする。

採ってきた臓器をナイフで切り、切り口をきちんと観察して、ここを顕微鏡でみれば診断が付くだろうというところを予測して、「切り出す」。

そういう作業だ。



将来的には、切り出しは病理医ではなく技師さんがやることになるだろう、という予測がある。実際、地方の病院では、病理医が足りないので技師さんによって切り出しが行われているし、北米の最先端の病院でも、切り出しは上級技師が担っているケースが増えているらしい。

話は病理の切り出しには限らない。

たとえば胃カメラ。胃カメラを入れるというのは日本では内視鏡医だけの特権であるが、アメリカだと、患者に胃カメラを飲ませ、胃カメラの先端を胃の病気の手前まで持っていくのはナース・プラクティショナー(NP)という看護師の仕事になりつつある。

心臓カテーテルなどもそうだ。カテーテルという特殊なデバイスを心臓の冠動脈まで運ぶ仕事もNPがやるらしい。

これらは、日本では、合併症が心配だとか、特殊な技能を必要とするとか、なにより医師が主導して開発されたとかさまざまな理由により主に医師が行っている。

けれどもアメリカの合理性からすると、「そこで医師がでしゃばる意味がわからない」のだそうだ。

手先の技術や、限定的な状況でのトラブル対処は、別に医師がもっとも上手に行えるとは限らない。

手先の器用さでいうならば医師よりも宮大工さんやビーズアーティストさんのほうがはるかに上だろう。

医学部で医学をたっぷり勉強してきた、ということが、デバイスの扱い方に何か有利かというと、そんなことはあまりないわけである。




医療はどんどん分業すべきだ。切り出しに必要なのは、医師がもつ「優位性(*)」ではなく、技師のような専門職がもつ緻密さ・手際のよさである。だから、あえて切り出しを病理医にまかせておくことはない。

((*)優位性、というのは、医師が病院の中でさまざまな責任を最後にとる職種であるということ、さらにチームの中でも各部門との連携が多いハブ空港のような存在であること。IQが高いとか知識が多いみたいな話は、IoT時代が進むにつれてだんだんどうでもよくなっていく。所詮人間の知能なんてコンピュータから比べれば50歩100歩だからだ。)




いずれは病理医がやらなくなる作業かもしれない。

でもぼくは今、病理医として、切り出しをする。

日本は遅れているから、技師さんにお願いすべき仕事を医師が抱え込んでいる?

人が足りないから、職種に関係なくやれることはすべて目に付いた人がやっていかないといけない?

まあそういう理由もある。

けれど、もっと大事な理由がある。

切り出しは「あとでプレパラートを見て診断をするときの参考になる」のだ。参考になるというか、肉眼で臓器をみるだけで、プレパラートをみるまえに9割方診断を終わらせることができる。

臓器を直接みることは、CTやMRIに映っていた病気の「影」の本体をじっくり探ることにひとしい。

言ってみれば、切り出しというのは画像診断の一種だ。

CTにおけるX線、MRIにおける磁気、エコーにおける超音波と同様に、「目で可視光をみている」。

だから、CTやMRIの画像診断を医師が行っている限り、切り出しも医師が行った方がいいだろうな、と思っている。




いずれは、CTもMRIも医師が解釈しなくてよい時代がくる。

そのときぼくらの「切り出し」も医師の手を離れるかもしれない。

ルーチンワークとして切り出しをする必要性はだんだん薄れていくだろう。

書道やそろばんを習う子どもが減っているように。

切り出しを習う病理医も減っていくのだと思う。




ではそのとき病理医は代わりに何を勉強するのだろうか?

書道やそろばんのかわりにコンピュータ。

切り出しの代わりに統計学とベイズ推計式診断学。AIの知識。

まあそのあたりになるんだろうな。




……ただ、ひとことだけ書いておく……。

「切り出しをはじめとする形態診断は、基礎研究のきっかけを産む」。

だからほんとうは人の手を離れてはいけないように思っている。

思っているけれど、事実、切り出しをまともに学べる場所はどんどん減っているようなので、ま、理想論をふりかざすのはほどほどにしておこう。