釧路にいる。毎月釧路にいる。月一回、出張でやってくる。
はじめて釧路に来たのは2005年くらいのことだから、今から13年ほど前だ。ぼくは当時大学院生だった。
病理診断のバイト先として浮上した釧路の病院。そこには、高橋先生というベテラン病理医が勤務していた。
ぼくには師匠が何人かいる。そのうちの一人が高橋先生だ。
彼は13年にわたり、ぼくを指導してくれた。月一度程度の顔合わせではあったが、高橋先生の知見はいつも深淵で、ぼくは毎月彼の診断手法を学び、彼が公費や私費で買いそろえた教科書の背表紙を写メに撮って、札幌に帰ってから購入して勉強したりした。
彼は読書家だった。ぼくは彼をとても尊敬していた。
あまり酒は飲まないが飲み会ではにこにことしていた。野球が好きで、高校野球で活躍した選手がその後プロ野球でどのように活躍しているのかを熟知していた。長嶋茂雄の時代以前から今日にいたるまで、ことこまやかに。
小柄だが姿勢がよかった。
釧路の病理診断は、ぼくにとってはとてもハードワークだった。あまり知られていないことだが、病院の立地条件や地域の人口、医療圏の規模などによって、病理診断をする病気の種類がだいぶ違う。自分がふだん勤務している病院の症例に”慣れる”と、ときおり釧路で経験する見たこともない症例の難しさに面食らう。かたっぱしから教科書を調べ、毎月ヒイヒイと泣きごとをいいながら診断を書き、高橋先生の指導を仰いだ。
先生は、怒りや悲しみをそのまま表に出さずに言葉で練り上げるのが巧みだった。
若い病理医は地方で仕事をしたがらない。当たり前である。地方に行けばそれだけ師匠の数が減る。若手にとって、病理診断という訴訟リスクの高すぎる仕事を、師匠の手を借りずに(責任を分散させずに)自分だけで請け負うことはリスク以外のなにものでもない。顕微鏡をみて書くだけの仕事ではあるが、それだけに、孤独に顕微鏡だけを見ていても自分の世界はいつまでたっても広がらない。……正確には顕微鏡を見ながら世界を広げる方法もあるのだが、それに気付くためには経験と達観が必要なのである。
だから、釧路の常勤医はいつまでたっても増えなかった。
先生は一度定年したのだが、次の病理医がいつまでも決まらないので、そのまま嘱託再雇用され、相変わらず病理診断を続けていた。
ぼくは彼に何度も釧路に誘われた。
「市原先生が釧路に来てくれたら安心なんだがなあ」
ぼくはその誘いを何度も断った。そして、毎月勉強させてください、大学とは関係ない個人の出張で恐縮ですが、ぜひお手伝いをさせてくださいと、長年言い続けた。
彼はいつもおだやかに感情を練り上げながら、ぼくにいろいろな診断学と、いろいろな文筆手法(診断書を書くには文才が必要なのである)、さらにはいろいろな哲学を教えてくれた。
ぼくには、札幌で師事している父親のような師匠がいる。名前をMという。Mと高橋先生は、同じ職場で長年仕事をしてきた同士だったそうだ。高橋先生のほうが4歳ほど年上だったがほとんど同期のような雰囲気であった。おもしろいな、と思ったのは、札幌と釧路にわかれてもう20年以上経つにも関わらず、彼らの書く病理診断書の文体がどこか似通っていること。ぼくは日ごろ、札幌でMの指導を受けているから、ぼくの文章もまた彼らと似ていたのだろう。高橋先生は社交辞令交じりにいつも、
「市原先生の病理診断書は読んでいて安心する」
と言ってくれていた。
ぼくは彼の死因を詳しくは知らない。
20年以上にわたりずっと単身赴任だった生活についにピリオドをうったのは今年の3月。そもそも一度定年してから延長して働いていたわけで、いつやめてもよかったはずなのだが、臨床に求められるまま、ぼろぼろになるまで働いた。4月には札幌の自宅に戻り、おだやかに過ごしたという。夏が過ぎたころ、亡くなった。
かれこれ2年半ほど前にみつかった大腸癌はかなりステージが進んでいた。彼は高すぎるインテリジェンスで自らの死期を冷静に探り、
「平均余命なんて所詮中央値だから、あと何年生きるとか死ぬとかいうのはあまりあてにならないが、そろそろ店じまいの準備だな」
と言いながら、それでも2年以上働き続けていた。経過中、間質性肺炎の悪化によって何度か抗がん剤の投与を見送ったりもしたが、それでもなんとかバランスを取りながら、はたらき、抗がん剤をうち、はたらき、わずか3回ほどではあるが、ぼくとも酒を飲んでくれた。
札幌で行われた通夜にて、釧路から目をはらしてやってきた技師さんたちとあいさつをし、札幌の師匠Mと隣り合って座り、高橋先生の死に顔を間近にみて手を合わせたところまでも泣かずに済んだ。大学の教授、前教授、お偉方などひととおり挨拶を済ませ、さあ、家に帰ろうというとき、高橋先生やMと一緒にかつて働いていた、旭川医大の某講座の教授とふと会って、彼の顔を見た。
高橋先生は、多くの一流病理医たちに認められ、釧路での孤独かつ久遠の病理学人生を全うし、最後には、もう何年も一緒に働いていなかったはずの旭川の教授をまるで子供のように泣かせていたのだな、と、そこでようやくぼくもおいおい泣いた。
この原稿を今、こっそりと、釧路の病理検査室の片隅で書いている。あと15分で空港に向かい、ぼくは札幌に帰る。また来月ここにやってくる。