油断するとすぐ、それっぽい説教を書こうとしたり、日頃の不満を文字に変えて共有しようとしたりする。
今も、記事の下書きをごっそり消したところだ。
世の中はとにかく最大公約数でできている。
非現実的な理想論をいうならば、全員の欲望にフルで答えるためには「最小公倍数的なサービス」を作らなければいけない。けれど実際には、予算とか技術とかいろんな都合があって、ほとんどのサービスは「最大公約数を担保する」感じで作られる。
だから、ぼくらはいつも、世の中が提供するものに、どこかしら不完全性を感じる。
足りないと思う。
もっとなんとかしてくれと思う。
そしてそれを思わず声に出す。
気づいたら、世の中のあれにもこれにもいっぱい声が出る。思わず。
それが中年というものだ。
目配りができるようになるからアラ探しが容易になる。
言葉数が増えるから詰問したり責めたりする言葉もいっぱい手に入る。
ぼくは中年がやけにオヤジギャグばかり言うのをある種の「劣化」だと思っていたが、今自分がそれになってみて、わかることがある。
確かに劣化もあるとは思う。けれどもそれ以上に、「自分の口から、のべつまくなし不満や説教ばかりが飛び出てくるのが怖い」。
口を開けば苦言、という人間に成り果てるのがキツい。
だから、口を開きたくなったタイミングで、とっさにダジャレを出しておくのだ。
そうすれば自分が「不満ばかりいうタイプのおじさん」でいる可能性を下げられる。
仮に「ダジャレばかりいうタイプのおじさん」だとなじられようともだ。
……苦笑いもまた笑い、ということ。
怒ったり泣いたりする時間を少しでも減らそうと思ったら、苦くても笑っているほうがまだマシではないか。
「ぼのぼの」の中にアライグマくんというのが出てくる。貴重な情報を一つ添えるならば、彼はアライグマである。アライグマ(種別)のアライグマくん(名前)だ。実にわかりやすい。
その彼の親父が出てくる回というのがある。
アライグマくんは、森の中に見知らぬクマが現れたことを知り、あわてて親父に教えに行く。たいへんだ、なんとかしなきゃ、と、興奮しながら。
すると親父は不機嫌そうにアライグマくんをどつきながら言うのだ。
「そんなこと大人はとっくにわかってんだよ。
わかって、あきあきしてんだ」
ぼくはこのシーンがめちゃくちゃに大好きだ。理不尽さがたまらない。
中年は、わかっていて、あきあきしている。子どもはそれを見ておろおろとする。
中年の取れる選択肢なんて限られている。
不機嫌になってどなって殴るか。
苦笑を求めてダジャレで韜晦するか。
いがらしみきおは天才だ。前者のタイプの中年を見事に描いた。
ゆうきまさみも天才であり、後者のタイプの中年として、パトレイバーの後藤隊長を描いた。