メールの返事が爆速、という人が何人かいて、そういう人の仕事をかなり信用しているのだが、メールの返事が遅いからといって仕事を信用していないわけではまったくない。
「メールの返事が早いこと」は単なる加点項目だ。減点基準としては使わない。
メールの返信速度は人それぞれだ。事情があり、スケジュールがある。職種環境によってネット接続状況だって違う。そもそも人間の能力を全く反映していない。適当に雑な内容でさっさと返信する人だっている。じっくりすばらしいメールを書く人だっている。
それがわかっているのにぼくは、なぜかメールの返事が早い人を信用している。
自分でもよくわからない。
極端な例をあげると、金曜日の夕方17時ころまではメールの返事が光速より早いが、金曜日の17時以降、月曜日の朝8時ころまではまったくメールに返事がこないという人が2人いる。この2人の仕事は世の中の誰よりも信用している。
この場合、ぼくは結局その2人の何を信用しているのだろう。
よく説明できない。もはや加点とか減点とかそういうレベルではなくて、その人の人柄が直接複数のシナプスを発火させて
三= 信
用 =三
三= で
三=き
る =三
みたいに、複合的に、直感的に、「いい人」スイッチが入る。
理由はわからない。
複雑系の入力に「メールの返信が早い」とぶちこむと、ブラックボックスの中を通り抜けて、なぜか出力が「いい人」となってしまう。
……あれ?
信用できる、できない、の話をしていたはずが、ナチュラルに今、「いい人」というキータッチをしていた。
ぼくが信用するかどうかってのは結局、「いい人かどうか」のようだ。
よく考えるとふしぎである。
いい人でも仕事ができない人なんていっぱいいそうなのに。
ぼくは「いい人の仕事は信用できる」と思っているようだ。
今いろいろと反証をたくらんだけれど、結論は変わらなかった。
「いい人はたいてい優秀」。
うん、書いてみてもおなじ。ぼくは本気でそう思っている。「いい人ならば信用してよい、いい人ならばたいてい優秀だからだ」。
メールの返信を急ぐ人というのはたいてい「いい人」だ。だからたいてい仕事ができるし、つまり信用してよい。そういう理屈のようである。
医学に暮らしていると、「Aならば絶対にB」というような法則がいかにあり得ないかを思い知る。「Aとわかったからすなわち必ずB」というようなことは基本的にありえない。あらゆる物事に例外がある。それこそが科学だ。だから、自然と「絶対はない」という思考過程があたりまえになる。
そんなぼくにとって、日常の生活で使って良い「最上の相関」は、
「AならばたいていB」。
これが示せたらもう御の字だ。「たいてい」の法則まで捉えたら十分実用レベルなのだ。
仮に、「たいてい」を超えるような相関が出たと誰かが言った場合……「間違いなく」とか「絶対に」とか「99%以上の確率で」みたいなセリフが踊った場合、それはたいてい、ウソ・おおげさである。
すなわち、
「いい人ならばたいてい仕事ができる」
とぼくが考えた場合、これはもう「人間社会で最強の相関」だということだ。だって、「たいてい」を超える相関なんてないんだから。
いい人だが仕事ができない人というのはいるだろう。けれどあくまで例外だ。それで十分なのである。
たいてい、それでうまくいっている。