「何かひとつのことに熱中できるなんて今だけだよ」と若い人に言いたくなることもあるのだが、結局この年になってもいちおうまだ熱中はできている。
ただその持続時間は短くなった。我に返る回数が多い。長時間の没入が難しくなっている。
海女さんのように「潜っている時間に働く」イメージでいる。熱中しているときというのは、深く潜水しているときの感覚に似ている。
けれども、そのイメージでいうと、日頃ぼくたちは、海面に浮いているときにも目配りをしたり会話をしたり、ものを書いたり受け渡しを行ったりすることが多い。
まあ実のところ、海上にいる時間の方が長くはなる。
潜水できる時間は昔よりも少ない。
けれど「熱中していない」とは思わない。
誰よりも深く潜って海の底にある真珠を採って帰ってくるために必要なものとはなにか?
真珠の知識?
脚力?
肺活量?
言語化しきれない、直感のような何か?
すべてにおいて練度を上げれば、同じ距離を潜ったとしても、それにかかる時間は少なくなるだろう。
はたからそれを見ている人は、「潜っている時間が短いね。やっぱり、年を取ると長いこと潜れなくなっちゃうんだね」と思っているかもしれないが、まあそれは実際にあると思うんだけど、でも劣化しているわけじゃないんじゃないかなあ、と思ったりもする。
そして今までの話をぜんぶひっくり返すようなことをいうが、海女さんのことはよくわからないけれども、ぼくたちのような人間は、成果はともかくとして「長く潜り続けている自分」のことが純粋に好きだったりする。誰よりも深く潜って、短時間のうちに真珠をいくつも集めている優れた海女さんもまた、もしかすると、心のどこかにぽっかりと、「昔はもっと長く潜っていたのになあ」というさみしさを抱えているものなのではないかなあ、と、他人事を邪推してしまうのである。