WANIMAを聞く気がしない時点で、「若者の感性」はもうわからなくなっている。
たぶんそういうことなのだ。
SNSがあるからぎりぎり若者の文化の「情報部分」だけはぼくに届く。探して集めることもできる。しかし、「情念の部分」だけはどうしても届かない。彼らがおしくらまんじゅうをして熱く湿った空気をぼくが吸うことはない。汗もかかない。写真のような光景だけは見ることができるが、五感に訴えかけてくるものがいろいろと少ない。
だからWANIMAを聴けない。聞こえるけれど。
ぼくらが中学生くらいのときにSNSがあったら、ぼくらの文化に対して40歳前後のおっさんたちが知った顔でネタツイをする様子をみて「キッモ」と思っていただろう。
だから突然WANIMAの話をしはじめたぼくをみた中学生がいたとしたらきっと「キッモ」と思っているかもしれない。あるいは「キッモ」という言葉の選択がそもそも間違っているかもしれない。今もぼくはどこかの誰かと断絶している。そのことに普段気づかないでいられる。世界は優しい。つながっているように勘違いさせてくれる。
ぼくが中学生だったときにはおっさん側が見えなかった。そして今、ぼくはおっさん側にいて、はるか過去に中学生だったときのことを引き合いに出して、現在と過去を比べて「俺は両方知ってるヨ」とやっている。けれどほんとうは何もわかっていない。過去の中学生は現在の中学生とは違う。同様に、過去のおっさんも今のぼくとは違うのだろう。
ずれている。ねじれている。世界は優しい。ぼくはそれに普段気づかずにいられる。
そういう世界の中で、なんだろう、言葉に上手にアクセントを乗せた人の話だけが、クラスタを超えて人々の間をツルツルと滑っていく。
書籍の依頼が来た。書き下ろしで、医療者とか病院についてのあれこれを書くみたいな内容を支持された。
つまんなそうだなーと瞬間的に思った。けれども、これはたぶんぼくが「WANIMAを聞く気がしない」と思っているのと似た根から出てくる感情だ。
それをつまらないと思っているぼくは、誰かからみてつまらないのかもしれない、と思った。
ぼくは垣根を越えてみたい。
そんなことはできないということも知っている。
隣の庭をのぞき見したおっさんが見ているものは、数十年前にそこで遊んでいた自分の姿だけだ。うすくぼやけて、編集されている。
編集者から来たメールをもう一度みる。
「実用や暴露的内容というより、
日常や実態をのぞきみる読み物としてのおもしろさに重きを置いてはどうか」
と書いてある。
ああ、そうか、あなたも垣根を越えたいのだ。
ぼくはエッセイを書き下ろすことにした。医エッセイ的な何かを書く。