2018年10月15日月曜日

病理の話(252) ケッペキすぎない程度に病気の分類

病気を治すにはいくつかの手段がある。「いくつかの」ときたら分類だ。分類万歳、分類みな兄弟である。ぼくらはみんな分けている。分けているから給料もらえるんだ。

失礼、病理医は分類マニアなので分類について五億六千万四六時中考えている。だから分類となるとテンションが上がってしまう。話を元に戻すぞ。


病気を治すにはいくつかの手段がある。「いくつかの」ときたら分類だ。今日はその分け方の中でも、一般の人がそこまで熱心には考えていないほうの分類を紹介する。

「病気を治すやり方を時系列で分ける」というやり方がある。


1.かからないようにする

2.かかった瞬間に治す

3.かかってだいぶ時間が経ってからがんばって治す

4.かかってだいぶ時間が経ってから病気を抱えたまま寿命が来るまで生きることを目指す


時系列で分ける、の意味がおわかりだろうか。番号の若いほうから、「病気にかかる前」「かかってすぐ」「かかって時間が経ってる」と、病気にかかっている期間の長さごとにざっくりわけているのである。

3,4あたりを見ると不思議に思う人がいるかもしれない。「なんで病気にかかってから放置するの?」「普通さっさと治すでしょ」。いや、そうもいかないのである。だって、世の中の病気の多くは「本人が気づかないうちに悪くなり、悪くなってから気づくもの」だからだ。「2.かかった瞬間に治す」ためには、「かかった瞬間に病気だとわかる」必要がある。なかなかそうはいかない。



もう少し詳しくみてみよう。



1.かからないようにする、なんてのはこれ、治療じゃなくて予防じゃん、という人もいるだろう。そう固いことを言わないでほしい。将来かかるかもしれないからかかる前に治す。ドラえもんも言っていたぞ、「焼き芋は食べる前にオナラをする」と。

2.かかった瞬間に治す、というのはさっきも書いたけどいわゆる「早期発見」の話である。病気の中には、早く見つければ見つけただけ治しやすいという類いのものがある。ただ、ご想像のとおり、これはものすごく難しい。ちょっと物騒な例え話をお許しいただくならば、「交通事故なら絶対に救急車を呼ぶべきか」という話を想像してほしい。

 (1)車にぶつかってどさっと倒れた →これはもう一刻も早く病院にいそぐべき。頭を打っているかもしれない。腰をぶつけているかもしれない。早ければ早いほどいい、病院で調べないと、あとで大変なケガがわかることがある。出血し続けているかもしれない。

 (2)亜音速で飛行しているドラゴンにぶつかって全身バラバラにくだけちった →これは病院に行く意味がない。ゆうしゃは しんでしまっている。さっさと教会に行って蘇生してもらうべきである。

 (3)紙飛行機が背中にぶつかった →なかなか本音を語らない幼なじみが授業中にふせんで折った小さな飛行機をぼくにぶつけてきて恋の交通事故である。ハートに重大な傷を負う前に一刻も早く一緒にカラオケに行くべきだ。恋は盲目だからと言っても眼科の出る幕はない。

 なんだか最後は追憶と妄想の世界に入ってしまったが、「事故ならぜんぶ急いで救急車」というのは間違いだ、といいたいだけである。場合によるのだ。
 そして「がんなら絶対早期発見すべき」も間違っている。ゆっくり見つけても対処がかわらないタイプのがんというのがある(たとえば49歳未満の甲状腺乳頭癌などはいつ見つけてもたいして治療がかわらない。たとえリンパ節転移が見つかったとしてもである)。個人的には大腸癌は早く見つけるに越したことはないと思っている。なお、膵癌は「早く見つけたつもり」でも実は発生からすでに15年が経過しているというスネーク的潜伏の達人なので、科学の進歩が待たれる。


3.かかってだいぶ時間がかかってからがんばって治す →がんだとこのケースが多い。実際、がんの治療は「総力戦」になる。すでに体の中にいるはたらく細胞たちが、がんと精一杯戦っている状況で、それでも打ち倒せないようながんは、もはや小さなゲリラではなくすでに国家レベルで戦争をしかけてきている巨悪なのである。だからこちらも様々な戦略を立ててのぞまなければいけない。

4.かかってだいぶ時間が経ってから病気を抱えたまま寿命が来るまで生きることを目指す → ……ここだよ。哲学は。

……「2.」と「3.」をじっくり読んでいると、考え込んでしまう。病気というのは早く見つけるに越したことはないのだけれど、場合によっては早く見つけたって総力戦で戦わなければいけないこともあるし、逆にゆっくり見つけてもちょろっと直せてしまうときもある。そう、「時と場合による」。ビシッと断定できない、玉虫色の、お医者さんが好きそうな厳密トークで申し訳ない。

で、この「場合による」を突き詰めていくと、ぼくらはある事実に気づくのである。

 「病気というのは、常に完治を目指すべきものなのか?」

いやいや病気なんだから治せよ、という直情的思考は決して間違ってはいない。世の真理ではある。しかしちょっと考えてほしい。

ぼくの体の中にがんがあるとする。このがんは将来ぼくの命を奪うのだが、がんがぼくの命を奪うタイムリミットは、無治療だと20年。ある治療をすると50年。ある治療とある治療を組み合わせると150年だと仮定する。

さあ、ぼくはこのがんを、治療するべきか、否か? 治療するとしたらどこまで本格的にやるか?

これをコーヒーでも飲みながら3日くらいゆっくり考えると、けっこう多くのことを考えつく。人によっては「150年! ぜったい150年!」とか、「はぁ? 150年ってことはがんは消えてないで150年かけてじわじわでかくなるってことでしょ? そんなの治療じゃねーから! その場しのぎだから!」みたいに突っかかってくることもある。

……でもねえ、ぼくは「50年」の治療でもいいかなって思うことはある。



命の長さは比べられない。私の50年にかける思いとあなたの50年にかける思いは違うだろう。どちらが正しいというものではない。




あと、ひとつ、付け加えておく。

もしあなたが、「がんを抱えたまま生きる状態」を、「特別な、かわいそうな、不幸な状態」としか考えられないならば、ぼくからの小さなおせっかいであるが、「そんなことはないぞ」と言っておきたい。

そもそも科学を突き詰めていけばわかることだが、今ぼくの体の中にはすでに無数のがんがある。これはもう確率的に間違いない。それらのがんが、体の中の「はたらく細胞たち」によって精一杯倒され、あるいはおとなしくされているというのがホントのところである。

はたらく細胞たちの防御をかいくぐって巨悪に成長したがんだけが、いわゆる「病院で診断するがん」として目に見えるようになる。

ぼくらは知らないうちに、がんと何度も戦って勝利しながら今を生きているのだ。

そしてその勝利は常に完勝ではない。今この瞬間にも、ぼくの体の中で「川中島」は起こっている。ぼくの体の抵抗勢力とがんがにらみあったまま動かない、均衡状態もしょっちゅう起こっているはずなのだ。目にはほとんど見えない、細胞レベルでの話だが。

「がんを抱えたまま生きるなんてかわいそう」? いやあなたも私もいますでにそうだから。免疫ががんばってそう思わせないでいるだけだから。



その上でね。健康に生きるとか、すこやかに暮らすために、「がんを完全に消し去ること」を唯一の目標にしてしまうというのは、ちょっと、ケッペキすぎないですかねえ、なんてことを思うことも、なくはないのである。

いや、気持ちはわかるのだけれども。