2018年10月25日木曜日

病理の話(256) 連想オタク早口談義

256というとやはり思い出すのはゼビウスだ。

……いや、「やはり」と言われても困るだろうけれど。

連想というのは、他人にはなかなかうまく説明できない。

説明しようと思えば言葉を尽くせる。

当時、ゼビウスというファミコンソフトがあり、それに出てくるバキュラという敵がいた。ゼビウスでプレイヤーが操作するのはソルバルウという名前の戦闘機で、前方からピュンピュンとビームが出る。そのビームでたいていの敵を倒せるわけだけれど、バキュラだけは倒せない。バキュラは一見するとリフォーム業者がもってきそうなタイルの見本みたいなそっけない板状をしているのだが、こいつがくるくる回転しながらこっちに飛んでくると、ソルバルウが何発ビームを撃ち込んでも倒せない。だから交わすしかない。ちょっといやな敵だったのだ。そして、小学生達もみな一様にバキュラを「おかしいやつだ」と思った。だからだろう、都市伝説がうまれた。バキュラに256発ビームをあてると倒すことができる。ぼくの友だちの兄ちゃんの知り合いがナムコに勤めていて、ナムコの会議室でソフトのプログラムをこっそり見たら、そう書いてあった……。ぼくの周りで流行ったうわさはだいたいこんな感じだった。すごいな、友だちの兄ちゃんの知り合い。ナムコの会議室でプログラムをこっそり見られるなんて……。そのころ、256という数字がもつ意味はよくわからなかったけど、のちに、さまざまなゲームソフトで、HP(ヒットポイント)の上限が255だということにピンときたぼくらは、「ファミコンでは0から255までの256通りで物事を表すと何かいいことがあるのだろう」と勝手に解釈をし、しかもその解釈はそれほど間違っていなかったのだけれども、後にでてくる「256メガのメモリ」みたいな言葉にも「あっ」と思ったし、中学校に入る頃に2の8乗が256だということを聞いて、二進法とコンピュータの関係を聞いて、そうかーそれで256が大事なのかーとわかったようなわからないことをつぶやいたりした。以上より、256といえばゼビウスなのだ。

……とまあこんな感じだ。説明しようと思えばできる。

けれど、この説明、だれが喜ぶだろう。

おじさんの昔話だ。ファミコン小学生の淡い思い出でもある。だから確かに刺さる人は多少いるかもしれない。

けれども大多数の「ふつうの人」にとっては、オタクの早口のざれごと、くらいにしか感じられないだろう。

それを知っているぼくたちは、「256というと何を思い浮かべるか」という質問に対し、そもそも「ゼビウス」とは答えない。

一般の人が多少ひっかかってくれる程度の言葉をうまく使う。自分が本当に導いた直感をそのまま伝えることはしない。

「256ですか? そうですね……別に思い入れはないですね。むりやり何かと結びつけるなら2の8乗ってことですけれど。あれ、あってますよね。2,4,8,16,32,64,128,256。あってたあってた。でもだから何だって話ですよ。」

もはやゼビウスどころかバキュラのバすら出てこない。それでいいのである。






アポトーシスというとやはり思い出すのは薬剤性腸炎だ。

……いや、「やはり」と言われても困るだろうけれど。

連想というのは、他人にはなかなかうまく説明できない。

説明しようと思えば言葉を尽くせる。

アポトーシスという用語があり、病理組織学の世界でも観察することができる。病理診断で病理医が観察するのはHE染色という方法で染められたプレパラートで、ヘマトキシリンがピュンピュン飛んでワイシャツに付くとぼくはがっかりして倒れる。そのヘマトキシリンでたいていの細胞核がきれいに見えるわけだけれど、アポトーシスという現象もまた見ることができる。アポトーシスは一見すると幼稚園児が描きそうな宇宙の絵みたいなそっけないつぶつぶの集まりみたいな像をしているのだが、こいつは細胞がプログラム死つまり自分で死んだときのサインであり、周囲の細胞に悪影響を及ぼさない。だから細胞一個がひそやかに死ぬ。ちょっとけなげな細胞死である。そして、昔の病理医たちはみなアポトーシスを「おかしいやつだ」と思った。だからだろう、アポトーシスの意味が研究された。正常の細胞でも低確率でアポトーシスに陥ることはある。ぼくの友だちの兄ちゃんの知り合いが昔かかった病院の院長の友だちの師匠が病理医でアポトーシスの研究をしていてそのことを教科書に書いていた。すごいな、友だちの兄ちゃんの知り合い(略)の師匠。アポトーシスで論文を書けるなんて……。学生のころ、アポトーシスという所見がもつ意味はよくわからなかったけど、のちに、さまざまな病気の組織で、アポトーシスが異常に観察されることに意義があると知ったぼくらは、「なんらかの生体反応の結果、一部の細胞が普段よりも多くプログラム死に突入することがあるので、逆にアポトーシスがあれば診断の助けになることがあるのだ」と勝手に解釈をし、しかもその解釈はそれほど間違っていなかったのだけれども、後にでてくる「薬剤性、とくにNSAIDs関連消化管炎症」みたいな病態でアポトーシスがみられると知って「あっ」と思ったし、大学院に入って研究をしているとアポトーシスを回避するメカニズムを発現しているがん細胞はやはり生存戦略を多めに持っていると習って、そうかーそれでアポトーシスが大事なのかーとわかったようなわからないことをつぶやいたりした。以上より、アポトーシスといえば薬剤性腸炎なのだ。

……とまあこんな感じだ。説明しようと思えばできる。

けれど、この説明、だれが喜ぶだろう。

おじさんの自分語りだ。病理大学院生の淡い思い出でもある。これが刺さる人はちょっと珍しいかもしれない。

大多数の「ふつうの人」にとっては、オタクの早口のざれごと、くらいにしか感じられないだろう。

それを知っているぼくたちは、「アポトーシスというと何を思い浮かべるか」という質問に対し、そもそも「薬剤性腸炎」とは答えない。

一般の人が多少ひっかかってくれる程度の言葉をうまく使う。自分が本当に導いた直感をそのまま伝えることはしない。

「アポトーシスですか? そうですね……別に思い入れはないですね。むりやり何かと結びつけるなら学生時代に最初にならったとき、スペルがapoptosisって書くんですけれど、そのことを教授が『アポプトーシスって読むやつは素人。2番目のpは発音しない』ってドヤ顔で言ったのがなんかむかついた、ってくらいですかね。」

もはや薬剤性腸炎どころか病理のビョすら出てこない。それでいいのである。