2017年8月7日月曜日

与謝蕪村って音だけ聞くと外人

時間という概念がよくわからない。

Aという事象とBという事象の「間隔」を量るために、水晶の振動をもとにしてなんらかの基準というか、目盛りを用意するというのは、わかる。時間という言葉に「間」が入っているのは、わかる。

ところが、「時が流れる」と言い出すと、ぼくにはもう、よくわからなくなる。

流れるとか言うと、まるで上流をたどれるかのようではないか。

過去が存在するような気になるではないか。

未来が存在するような気がするではないか。

けれどそんなものはない、と言うのを、なぜ未だに科学的に証明できないのかが、不思議である。

不満ではない、不思議だ。



おおまじめに「過去がある」とか「未来がある」と言う説が未だにある(だからタイムマシンがどうとか言う)のが、なぜ物理学的に許容されているのか、物理学とかの根本をよく知らないぼくは、いまいち理解できていない。

あるわけねぇじゃねぇかと思う。思うんだけど、うまく説明できない。



これは、「信仰」だろうか?

科学ではなく、感覚で、「過去とか未来という概念はともかく、実際に事象としては存在しない」と思ってしまうのは、根拠がないけど信じている、というやつだから、信仰と呼ぶべきなのだろうか?



毎日、医療と医学のことを考えていて、科学とか、心情とか、そういったことを少しずつ切り分けるように注意して、それぞれを尊重できるように、と考えてことばを選んでいくのだけれど。

いつのまにか、「科学とかよくわかんないけど心情的にその医療は許せん」みたいなことを言う人々の、気持ちがわからなくなってくる。

いいから科学を信じてくれよ、と言いたくてしょうがなくなる。



ぼくは、過去とか未来とか宇宙とか次元みたいな話の、ほんとうに深いところを、勉強しないまま一生を終える予定となっている。それでよいと思っている。誰かはもっと深いところで会話をしている。ぼくはそういう難しいことを知らないまま、感情と信仰だけで時間や世界を計っている。

それで事足りてしまっているからだ。

そして、医学や医療に対して、感情と信仰だけでよしと思っている人たちの気持ちに、寄り添えるだろうかと、ちょっと不遜なことを考えている。