2017年8月18日金曜日

脳だけの旅をする

先日、どこかのブログで、「見る専クラスタ」という言葉をみた。若い学生の大半は、SNSのアカウントを持ってはいるが1か月に1回も更新せず、ただひたすらにタイムラインを眺めたり検索をしたりして、いいねも押さずに情報を集めたり笑ったりしているのだ、という話。

これは、とてもよくわかる。

釧路の看護学校で教えていると、学生達はみなツイッターアカウントを持っているが、そもそもツイート数ゼロという人間がかなり多い。一般に公開するツイートはゼロ、友人にあてたリプライだけが数万、というやつらもいる。それならLINEでいいじゃん、というと、LINEと違ってリアタイで返事するプレッシャーが少ないし、芸能情報検索するのに一日何度か見に来るからそれで十分、という返事が来た。これぞデジタルネイティブだ。





インタラクティブということばは時代遅れなのかもしれない。

もらったら返す、という関係は、たまにでいい。

一時期、テレビが「dボタン」などを使って双方向放送にこだわりはじめた時期があった。でも、結局、ちょろいアンケートとか子供が退屈しないためのミニゲーム的な役割しか果たせていない(しかもあのゲームはたいてい退屈だ)。

ぼくらはそこまで、四六時中ずっと双方向でありたいと願っているわけではないのだと思う。




だまって脳の中で旅をする時間が必要なのだ。何も言わず、問わず、責めず。入力と出力は、場所、時間ともに、一致していなくていい。




自分がつくりあげた想像のお城にもぐりこんで、広間で誰かと踊ったり、かかっている絵を見たり、テラスから風景を眺めたりしている間は、

・大声でひとの悪口を言う
・ネットで他人の醜聞を検索する
・だれかのアラ探しをする
・徒党を組む

などの行動はいっさいできなくなる。素晴らしいと思う。どこかの戦場に魔法をかけて、全員がけものフレンズの二次創作に没頭したら戦争は終わるだろう(別の意味ではじまるかもしれないが)。妄想にふけるという行動は、世界にとって「鎮静をかける」ようなはたらきをしているのかもしれない。ジョンレノンとオノヨーコは「ぼくらべたべた愛し合っている間は戦争しなくていいんだよ」みたいなメッセージを発していたけれど、パートナーがなければ戦争が避けられないなんてのはそれこそ筋が悪い。脳を愛すればそれで十分ではないか?



……そういえばよく考えたらイマジンという曲があったな。歴史というものはうまくできている。