2017年8月29日火曜日

病理の話(115) 診断とキュアとケア

「なぜ診断するのか」を考えないと、医療はいろいろわからなくなってしまう。



「診断? それはともかく治療してくれよ。治さなければ病院の意味がないだろう」

この考え方は極めて妥当である。患者が医療に求めているのはひたすら治療だ。ぼくら医療者だって、いざ自分が病院にかかることになれば、心の底から「早く治してくれぃ」という気分になる。

それが「普通」である。

ただし、医療の「普通」は、社会の文脈と共に少しずつ移り変わっている。

それに気づかないままではいられない。



かつて、ひとつの病気はそのまま、死への切符であった。

足にケガをすれば、歩けなくなり、正常の暮らしが遅れなくなり、ケガをした部位に細菌がつき、全身に回ってそのまま命を奪われた。

胃にできものができれば、それはそのまま大きく広がり、ご飯が食べられなくなり、栄養が奪われ、衰弱して死に至った。

関節リウマチは人の生活を著しく不便にした。ひとたびリウマチだと診断されれば、その中年はもはや老年と同じような生活をしているかのような気になり、自らの人生を悟った。

しかし、抗菌薬によって感染症が制御されはじめ、外科手術によって腫瘍の根治という概念が生まれ、さまざまな内服薬によって内科的疾患が「命までは奪われない」状態へと封じ込められるようになると、病気の概念もまた少しずつ変化してゆく。




かつて、ピンピンコロリという言葉があった。

ピンピンコロリはひとつの理想である。死ぬ直前まで病魔を意識せずに人生を謳歌し、あるとき心臓や脳の血管が詰まって本人も気づかぬうちにコロリと亡くなってしまう、江戸っ子でいうところの「粋」な人生……。じわじわ死ぬような病気はいやだ、死ぬならひと思いにやってくれ。

今でもこの死に方を望む人は多い。苦痛を伴った死を回避するための方策がほとんどなかった昔は、もっと多かった。けれど、現代医療では、人生のゆるやかな着地をある程度準備することが可能である。苦痛を軽減させながら、軟着陸するように「死を準備する暮らし」。

コロリと死んでは困るんだよな、と思う人だっている。




一病息災、という言葉もある。人間、ひとつ病気にかかると、病気をなんとかしようと病院にかかるが、その結果、他の病気に対する監視の目が強くなる。ぐうぜん他の病気を発見して、治療できてしまうこともある。

あるひとつの病気を持つことで、健康への意識が目覚め、医療の関与も頻繁になるために、かえって長生きできることもある、という、ライフハック。それが、「一病息災」である。





病気という言葉は、もともと、生死を予測するだけの言葉だった。死ぬか、生きるか。

しかし、今は違う。ある病気Aが、進行度B%であるという「現状」次第で、その後の人生があまりにも多彩に展開しうる。

もはや病気とは「終わり」を意味する言葉ではない。「今」を表す言葉だ。

死神というよりは背後霊。さらには、(一病息災のように)守護霊のような存在ですらありうる。



治療ができれば生? 治療ができなければ死?

たとえ病気を持ったままでも、病気とともに100年生きることができるならば、その病気は「治ってなくてもかまわない」。

生と死の中間に病気という状態があると考えることもできる。

「病気という状態は生を否定しない」。




そうなると医療のあり方も変わるのである。

キュア(病を完全に治癒させること)だけが目標ではない。

キュアと共に、ケア(病をもったまま、よく生かすこと)が、現代医療の根なのである。




「診断ばかりして、病気を治せない医者に、価値があるの?」という人々に、ぼくは沈黙する。

「病気の治らない人生に価値があるの?」という問いと同じ根を持つこの質問を、真っ向から否定できるほど、ぼくは子供ではない。その気持ちは、極めて妥当だからだ。

ただ、心の奥底で、静かにつぶやく。

「診断とは、死を推測するだけのものではなく、生の有り様を識ることなんだ。生を識ろうとすることに、価値がないわけがない……」。





今あなたがどういう状態にあるか。診断。

今のあなたをどう生かすか。ケア(維持)。

願わくば、悩みのタネよ、消えてなくなれ、なくなったらいいな。キュア(治療)。

誰もがキュアを望む。けれど、これからは、キュアと一緒にケアを考える時代だ。そして。

生か死かの二択ではない。

「どのような生か」を見極める、「診断」の価値を知ってほしい。




病理診断医は100%を診断にささげる職業である。だから、診断に価値があると唱えることは、ある意味手前味噌かもしれない。

それでも。

多くの人々にとっての医療が、いろいろわからなくならないように。

キュアとケアを見据えて、「なぜ診断するのか?」を考え続けることは、やはりぼくらの仕事だよなあ、と思うのだ。