夏が終わってしまった。札幌の夏は例年以上に短かったように思う。もともとぼくが小さい頃は、お盆が終わるとスッと寒くなるのが一般的だったと記憶しているが、ここ数年、札幌でも残暑が感じられていたので、油断していた。まだ夏はあるだろうと信じていた。
夏が終わってしまった。
そういえば今年は、7月の頭くらいがとても暑かった。35度近くあった。本州のどこよりも暑い日もあった。春の終わりは暑かったのに、いざ夏になってみたら、短かったなあ。
……という書き方も、へんだな、なんかおかしいなあ、と思い始めたのが今である。
もしぼくが、カレンダーのない世界に暮らしていたら、今年の夏はちょうどよい期間続いていたのではないだろうか。
「札幌の7月上旬は、まだ夏ではない」という固定観念のせいで、せっかくの夏日を夏っぽく過ごせなかった。
「札幌のお盆ころに寒くなったら、もう暑い日はそうそう戻ってこない」という固定観念のせいで、お盆が終わったら自動的に夏も終わった気分になってしまった。
カレンダーのない世界だったらな。
今が何月なのかよくわからない。何月、という概念もない。曜日もないだろう。誕生日もわからなくなる。
何日か働いて、疲れたら休むことにする……でもいいけれど、それだと自分の休むタイミングがばらばらで、客に迷惑をかけるから、いちおう定期的に休むようにはしたい。
カレンダーはなくとも、7日おきくらいのリズムであれば、まあ忘れずにはいられるだろう。
季節についてはすごくあいまいになるに違いない。
思えば最近は半袖だとちょっと寒いなあ、と感じたら、その日をなんとなく秋と呼ぶことにする。
秋だと思っていたけれど今日は妙に暑くてジャケットを着ていられない、と感じたら、その日だけは夏の再来と認定しよう。
それが何月であっても、である。
ぼくは、ちかごろ、ほとんど盲信していたのだ、カレンダーを。
「8月なんだから夏だよな」
「12月と言ったら冬だよ」
「今日はたいへん暖かく、7月下旬なみの気温になるでしょう」みたいな天気予報のおねえさんのセリフ。これでもう、聞かなくて済む。
季節はその日、感じたままを言う事にしよう。
今日は夏だなあ。
昨日は冬だったね。
誕生日が覚えていられなくなるのは少し悲しいかも知れない。亡くなった祖母のように、「わたしの生まれた日はだいたい雪がつもりはじめる日でねえ」などと、生まれた日と季節を感じさせる出来事とが重なっている人であれば、自分の生まれた季節をなんとなく感じることができるだろう。
ぼくの誕生日には、そういう、季節の変わり目的な何かはないと思うから、たぶん、自分が生まれた日がいつ頃なのか、だんだんわからなくなってゆくだろうな。
何か、誕生日のころに咲く花でも勉強しておこうか。
桜が咲いた日に生まれた人のことが少しうらやましくなってくる。
桜が散る日であってもいっこうにかまわない。
日本は四季がはっきりした国だから美しい、というのは、ちょっと微妙だなあと思う。
秋になればテレビのアナウンサーが「今日は夏のような暑さでした」と言う日が必ずあるし、春になっても気象予報士が「今日は冬に逆戻りです」と言っていたりする。
四季ははっきりしてないのだ。はっきりしているのは、カレンダーのほうだ。
日本はカレンダーがはっきりしている国だから美しいのです、なら、まだわかる気がする。
そうだ、ぼくは、しっかりかっきり決まっているものの中でぬくぬく過ごすのが、美しいと思っていたふしがある。
今日感じる限りでは、夏は終わってしまったように思う。
けれどまだ暑くなるかもしれない。夏はいつでも戻ってくる。