病理診断は顕微鏡によってなされるというのが一般的な(?)理解であるが、実際には、臓器を肉眼で見た段階、あるいは臓器を見る以前に各種の検査データをはじめとする臨床情報を見た段階で、9割5分まで確定できる。
顕微鏡を見るころには診断はほとんど終わっている、ということだ。
もっと言うと、世の中の病気のほとんどは、顕微鏡で細胞を見る「必要」がない。だから、病理医がいない病院であっても、診断と治療は行われているのである。
たとえば胃癌。顕微鏡で癌細胞がどのような種類のものであるか、癌細胞が胃の壁にどれほど深く食い込んでいるか、癌細胞が胃の中でどれだけ広がっているか。
これらは、事前の胃カメラやCTなどでほとんど診断が可能である。
この、「ほとんど」というのがくせ者だ。
おみくじをひく。
箱の中には、大吉が100本、中吉と小吉がそれぞれ2本ずつ、凶が1本入っている。
これは、「ほとんど大吉」という状態だ。
臨床診断の「ほとんど」というのはそういうことだ。
エビデンス・ベースト・メディスン(EBM)というのも、つまりはこの、「おみくじの本数・内訳をきちんとわかってから診断と治療をしよう」ということである。
医療というのは、ほぼ勝つことがわかっているおみくじをいかにうまく引くか。
大吉が少なそうならば、中吉や小吉を引ける確率はどれくらいであるか。
いかに凶を引かないか。
凶を引いたとして、そのときにどう対処をするか。
これらを考えていく作業である。
顕微鏡を見なくても、大吉の本数はもうわかっている。これが臨床医学。
では顕微鏡とは何を見るのか?
箱の中で手が掴んだくじを、箱から取り出す前に、覗き込むこと。
大
吉
という文字を直接読むこと。確率を超えて事実の元に診療をしようとすること。
箱から実際に取り出したくじが、汚れて、かすれて、うまく読めないときに、その文字をきちんと読むということ。
「なんとなく大吉って読めるなあ」を、「確実に大吉だ」と読み切るということ。
病理診断のレポートに、「可能性」という言葉が書いているとき、臨床医はとてもいやがる。
「おい、なんで実際にくじを掴んで見ているはずの人間が、可能性なんて言葉を使うんだよ。事実を言えよ、そのための病理診断だろう」
まあそうなのだ。そこが期待されているわけだから。
でもねえ、くじというのはねえ、往々にして、
大
士
口
って書いてたり、
太
吉
って書いてたりするものなのよ。そこに出てきて、「この士と口とは合わせて吉にして読みます」とか、「この太いという字にまぎれている点は偶然まぎれこんだものです」とか、言わなきゃいけないってところに、病理診断の奥深さと人間らしさが潜んでいるのである。