「病理医は客商売である」と感じる瞬間がけっこうある。
大学院を出て、今の病院に勤めてから、すなわち現場のいち病理医として働き始めてからは、その思いが非常に強くなった。
学生時代や大学院時代までは、病理診断とは「脳だけで働く仕事」であり、手技も処置もしないで、ひたすら顕微鏡と語り合う、沈黙のタスクだと思っていたが、実際には
・クライアントがいて
・何かを要求され
・プレゼンをして
・納得してもらう
という仕事であった。
クライアントとは医療者である。要求とは「この人の病気を詳しく知りたい」ということ。プレゼンとは病理診断報告書やカンファレンスでの説明である。
多くの医療者は病理医に言う、「患者を相手にしない仕事だから~」「患者を相手にしない仕事はいいよな~」「患者を相手にしない仕事でモチベーション保てるの~」……。
ぼくらは、患者と全く相対しないが、医療者を相手に仕事をしているのだ。心配には及ばない。
ただ、病理医の中にも、違う考えの人はいる。
「顕微鏡だけ見ていれば仕事ができる」と考えている病理医も実際にいる。
そういう病理医が勤める病院では、かなりの高確率で、
・臨床医が病理医に興味がない
・病理医も臨床医に興味がない
という、ウィンウィン? の関係が成り立っている。
それでも医療は回る。それでも患者は治る。
だから、ぼくは一概に、「人とのコミュニケーションを放棄した病理医は悪である」とは思っていない。
毎日おいしいものを食べなくても生きていける。
しょっちゅう楽しいテレビを見なくても暮らしていける。
どこかに旅行に行かなくても人生は続く。
病理医がコミュニケーションしなくても臨床は回る。
ぼくは、「患者とのコミュニケーションに自信がない人」に、病理医になってはどうかと勧めることがある。その人と話す。患者と話すのは辛いか、苦しいか、自分に合わないか、いろいろと聞いてみる。
最後に、「でもまあ、今こうして、ぼくと話す分にはそこまで苦しそうじゃないよね、あなたは」と問いかけてみる。
「まあ、患者でなければ、はい、それなりには。」
「だったら、あなたは医療者と会話する道を選べばいいように思う」
患者とのコミュニケーションと、医療者とのコミュニケーションでは、使うスキルが微妙に異なる。得意、不得意のありようも少し違う。
医療者とのコミュニケーションが辛い、というタイプの医者もいる。
ただし、ぼくは思う、顕微鏡をみて組織像とコミュニケーションすることができる人間であれば、きっと医療者とのコミュニケーションだって、たどたどしくも続けることはできるだろう、と。
上手じゃなくてもいいので、会話をしてほしい。
たまにでいいので、医療者と会話をしてほしい。
病理医は客商売である。ただしその客は身内である。比較的、寛容な身内である。
そういう世界があることを知っておいてほしい。医学部にいる、1%くらいいる、君のような人、早朝にツイッターのリンクからブログを見に来るような人に。患者じゃなくていい、医療者を相手に話せばいい、なんなら細胞や分子と語り合うのでもかまわない。
コミュニケーションは社会がいうほど一様なスキルではないということを、少なくともぼくは知っている。
他人の定義した「コミュニケーション」がへたであっても一向に構わない。
もっと広義のコミュニケーションを試してみてはどうか。
病理検査室ではそれができる。