尊敬する病理医が何人もいるのだが、みんな爆裂に「話すのがうまい」。因果が逆かもしれない。話すのがうまいから、尊敬しているのかもしれない。
ぼくが考える、「話すのがうまい病理医」にはある共通点がある。それは、彼らの脳内に、「ぼくがいる」ということだ。
「先生、この消化管生検、難しくて難しくてもうぜんぜんわからないんですが……」
「ちょっと見ていい?」
「もちろんです、お願いします」
「……これはね、難しいやつ。フフ、でもわかっちゃった。偉い?」
「……偉いです……」
「おしえてほしい?」
「教えて欲しいです」
「じゃあね、結論を先に言おう。○○病」
「ぎえっ、○○病!? そんなこと考えもしませんでした……」
「では次に進もう。なぜぼくが○○病って気づいたか、なぜ君は現段階でこの病気に気づけないのか、そのあたりを探ってみよう。ちょっと時間かかるけど今でいい?」
「お願いします」
これを、病理医になりはじめたころ、最初期に、ある人にやられた。
ものすごい衝撃だった。
自分がわかっていることを教えてくれるだけじゃない。
わからないでいるぼくの脳を読んで、
「これをわかりたいと思うんだったら、お互いの脳や目が見ているものの違いを比べてみよう」
というセリフ。
しびれあがった。
病理診断は、主観の学問であるとされる。核が大きいとかクロマチンが濃いとか、そんな、人によっていくらでもズレが出てきそうな基準で病気を分類している。病理医の胸先三寸で、がんかそうでないかが決まる、なんて揶揄されることもある。
風評被害が出るのも、無理はない。
形態診断学は、確かに、客観性を担保するのが難しい。レギュラー(整っている)をどれだけ外れたらイレギュラー(乱れている、不整である)とするか、という基準を設定するのはとても難しいからだ。
まして、その基準を言葉で説明するとなると、これはもう、極めて困難である。
極めて困難だけど、やらなければいけない。
ぼくらは、説明した相手に、「主観で決めてんじゃねぇよ」と言われないように、さまざまに客観性を確保する。
サイズはきちんとμmの単位で計ろう、とか。
特殊染色で細胞をより差異がみやすいようにハイライトしよう、とか。
そういう細かい努力をする。
診断を聞かせる相手に、「てめぇの主観じゃねぇか」と言われたくない。
だったら、どうしたらいいか?
「てめぇだけじゃなく、ぼくも理解できるなあ」と、思ってもらえればいい。
相手の主観を自分の主観と同調させる。
複数の人がみな、思い思いの主観でとらえた映像が「共通」しているならば、それはすでに客観なのである。
そんなこと、可能なのだろうか?
話じょうずな病理医というのは、それができる。
話のうまい病理医に、ぼくが質問をすると、彼らの頭の中には、「ぼくの主観」がきちんとインプットされる。
ぼくが現状どこにひっかかっているか。ぼくがこれから説明を受けたときに、どこに疑問を持ちそうか。どの順番で説明すれば、ぼくが「わかる!」と言うか。
そういうのがきちんとある。
尊敬する病理医と話すとき、彼らの脳内にはいつしか「ぼくがいる」。
だからこそ、彼らのしゃべっていることは、ぼくにとって、極めてわかりやすい。正直、かなわんなあと思う。
「先生はこの免疫染色の所見を参考に、こう考えているみたいだけど、私の意見は違う。……この免疫染色は、固定条件などに、あてにならないときがある。盲信できない。ホルマリン固定液の種類、検体が手術場で常温にどれだけ置かれていたか、そういった、病理医の手元に来るまでの処置の差が、診断を難しくしている可能性がある」
ぼく「そんなこと、考えもしませんでした……」
「もちろん、私が見ても、このプレパラートの診断は極めて難しい。しかし、私はこのプレパラートの奇妙さに気づけた。それは、私が君と比べて、プレパラートになる前の段階にトラブルが多いということを、経験的によく知っているからだ。わかるかな」
ぼく「なるほど、ぼくにはそこが足りないのか……」
今まで何遍、「なるほど」と言ったろう。