臨床医がやってきて、「研究会」の相談をした。
研究会というのは独特の文化である。
たとえば胃カメラ、たとえば腹部CT、たとえば超音波といった、「画像で臓器のなんたるかを見てやろうという検査」があるとする。画像にはさまざまに、病気の姿が映し出される。
ただし、その姿というのは、究極的にはかならず「影絵」である。そのもの本質までは絶対にみることができない。
医療というのはなんでもそうだ。心臓に詳しい医者が、心臓の病気を治すとき、心臓を取り出していじって治すことはできないだろう。「取り出して」しまってはいけないのだ。そこにあるがまま、胸の筋肉や脂肪や骨という障壁を乗り越えて、外から中を想像して、おもんぱかって、薬なりなんなりを投与して、治す。
医療とは基本的に安楽椅子探偵なのである。現場までは赴かない……というか、赴けない。あくまで遠隔地にいて、そのものがどうであるかを推理し、直接手を触れることなく、対策を施す。
「えっ、胃カメラだったら病気を直接見てるんじゃないの?」
「皮膚の病気なら直接見られるじゃん」
これもまた、一面の真実ではあるが、正しくはない。胃カメラで見えるのは、病気の表面だけだ。皮膚の病気だって、外から見た模様の違いしか、直接見ることはできない。
「中でどうなっているか」はわからないのだ。
だから、医療者というのは、常に不安である。
見てきたかのように診断したけれど、ほんとに合ってたんだろうな……?
これをなんとかしようというのが、いわゆる「画像系の研究会」である。
胃カメラ、腹部CT、超音波……。実際に患者さんに当ててみて、得られた画像を、主治医だけでなく、多くの医療者が眺めて、それぞれに意見を言う。ここにはこれが映っている、ここは見逃してはいけない変化ではないか、これはちょっと珍しい画像だなあ。
ここに、病理医も参加する。
病理は、病院の中で唯一、「実際に採ってきた臓器を見られるところまでとことん見尽くす」部門である。胃の病気だろうが肝臓の病気だろうが乳腺の病気だろうが皮膚の病気だろうが、手術で採ってきたからには、あるいは一部をつまんできただけであっても、表面、割面、内部性状、細胞のなんたるかまでとことん見てしまう。
つまりは画像で予測したものの「答え」的なものを提示できる、唯一の部門であるということだ。だから、たいてい研究会には「答え合わせの役割」として呼ばれることになる。
ただし……。
ピアノの音が聞こえてくる。ああこれはドとソの和音だなあとわかった人がいたとする。ドとソであると言い当てるだけではなく、実際に奏者がどの鍵盤を叩いているかを予測することができる。
画像から病気の正体を予測するというのは、これだ。
影絵を見て元の絵を当てる、みたいな単純な作業では、必ずしもない。
ドとソは、右手で同時に弾かれているかもしれないし、もしかしたらボールペンで押されているかもしれない、足の指で弾いているかもしれない、これらは音を聞いただけではなかなかわからない(わかる人もいるかもしれないが)。
病理というのは、この、「ああ、足で弾いているなあ」というのをずばり言い当てることができるのだが、往々にして、
「足で弾いてますねえ、まあ、どの鍵盤を押しているかはわかんなかったんですけど」
なんて回答を出すことがある。
臨床医は、ドとソという音を聴いており、病理医は、足で鍵盤を叩く姿を見ている。
……これらは、噛み合っているようで、噛み合っていない。
どちらがほんとうに、患者さんにとって大事な情報であるのかは、ケースバイケースである。「ドとソである」方が重要なケースが多いが、「足で弾いている」方が重要なケースだってあるのだ。
病理医が研究会に出る時、そこに求められているのは、「答え合わせをする」という役割では、ない。
ひとつのものを、下から見るか、横から見るか、それによって何か深みが表れないだろうか、という試みに参加するということである。
ぼくらは一つの打ち上げ花火を、瞬間の楽しみで終わらせてはいけない。
どこまでも見て、話していく。花火の残響がすっかり消え去って、煙もかききえてしまった後も、花火の写真を見ながら、あれはこういう花火だったんだなあ、と、どこまでもどこまでも研究していくのである。