2023年3月2日木曜日

生徒ビンビン物語

人の数だけ個性があり、生き方、大事にするもの、「良かれ」の方向など、さまざまなバリエーションがあるということを毎日噛みしめている。金、仕事、生き甲斐、人間関係。


参った! ギブアップである。こんなに人それぞれじゃあ、もうぼくはついていけない。しかしじつはこのプロレス、ギブアップしても試合が終わらない。いくらタップしても締め上げる腕が緩まない。すとんと意識が遠ざかり、ぼくは落ちる。落ちても試合は終わらない。目が覚めたらまだ締められている。ギブアップ! しかし試合は終わらない。


ぼくなら不満に思わないような部分を思い悩む人。どう声をかけていいのかいつも困る。

ぼくなら気にも留めないようなことを何度もリフレインして沈み込んでいく人。「わかるよ」と言えないことがこんなにしんどいとは。

ぼくが気づきもしない石ころにつまづく人。

ぼくが感知しない花粉でずっと鼻水をたらしている人。

かける言葉はなくなる。ああそうか、昔の人が「背中で学べ」と言った理由がいまならよくわかる。かつての師匠達は、弟子たちと面と向かって話すことがめんどうだったのだろう。自分よりあとからやってくる人とわかりあえる気がしなかったのだ。そうに違いない。

ちなみにきょうび、「背中で学べ」をやると、それで傷つく人もいる。だからもうできないと思う。

向かい合えば無。

背を向ければ死。


そのうち少しずつ少しずつ、自分の話が通じる人とだけやりとりしたくなる。

クラスタに分かれていく。

思考が凝り固まり、仲良しグループでだけ会話するようになる。

だめだぞ、そんなことでは。いえ、大丈夫です、ご心配には及びません。

なぜならぼくには、「話が通じる人」の心当たりがないからだ。寄り合いにはまる心配はない。派閥に巻き込まれるおそれもない。

本当は、「互いにわかる人」とだけ会話をしていたい。良いものを良いと、つらいことをつらいと言いあえる人と、目配せをし、肩をポンポンと叩きながら、酒でも飲みつつ苦笑いをしたい。言葉と視線と感覚を交わすのだ。肉声で。肉眼で。肉体で。

でも、そんな都合のいい人はいない。

誰あろうぼくがそもそも、昔から、他人が不満に思わないような部分で思い悩み、他人が気にも留めないようなことを何度もリフレインして沈み込んだ。人のつまづかない根っこにつまづき、人の感じないホコリにアレルギーだった。

そもそもわからなかった、わかられなかった自分が、今、他人を、若者を見て、わからないわからないと言っている。



どうしたものかと考えて10年以上が経つ。直接顔を合わせたってわかりあうことなんてできないのだから、そこはもうあきらめて、ネットの力で、不便な言葉をすべらせて、感情の表層だけをやりとりする。表層だけしかやりとりしない。深いところにあるものなんて誰にもわからないし、誰のもわからない。そういう感覚を知ってなおここにいる人たちが、何万人、何十万人、みんな違う。みんなわからない。わかられない。それでもなぜか、「ぼくと同じようなモチベーションでここにいる人」がいることだけはわかる。

何百万人という他人がそれぞれ内心で何を考えているか、何に悩み何につまづいて何に涙を流しているかは一切わからない。しかし、わからない数千万人はみな、むき身の自分でリアルでフィジカルにぶつかりあってもなお、誰にもわかられなかった人たちである。じつは全員そうなのだ。誰も互いをわからない。

「この手紙程度ではぼくのことは何も伝えられない」と肩を落としながら大海にガラス瓶を流している人が数億人いる。

ぼくはその、「ビンに手紙を詰めて流す感覚」だけが、ぼくら全員に共通しているのではないかと思って、ネットに文字をすべりこませてきた。



その感覚すら共有されていないのだ、と知るまで、そんなに時間はかからなかった。