2023年3月23日木曜日

人を呪わば穴二つ

こんなぼくにはもちろん後ろ暗い部分がある。たとえばどういうところかというと、何年も前にTwitterでぼくのことを揶揄したアカウントをたまに思い出してホームを見に行き、あいかわらずあちこちの「敵」と戦うツイートばかりしてるなとか、プライベートに関する愚痴がツイートに漏れ出ているなとか、あいかわらず友だちは増えてないんだろうなといったふうに、「同情を投げかける」ところだ。もちろん直接話しかけるわけではない。脳内で「かわいそうに」と蔑むのである。


自分のことを悪く言った人に後日ひそかに同情するというのはいかにも性格の悪い行為だと自分でもわかっている。だからことさらツイートすることはないが、じつは半年に1度くらいそういうことをやっていて、常習犯である。やるときはまとめてやる。仕事が一段落した夜7時半くらいに、ツイッターからログアウトした状態で記憶をたよりにいくつかのアカウント名を検索して、「いまどうしてる?」


アカウントがなくなっていることもある。アカウント名が変わったくらいだと、Googleを使えばなんとか見つけることができる。いずれにせよたぶんつらいことがあったんだろうなと同情する。炎上の真っ最中なんてこともざらにある。そのうち沈静化するからがんばりなと同情する。


同情とは同じ情と書くけれど、実際にはぜんぜん漢字と合わないニュアンスをいっぱい持っていて、これはつまり「かわいそうに……」か、「かわいそうに笑」のどちらかであるからぜんぜん「同じ情」ではない。むしろ違情、もしくは異情と書くべきである。


さらにいえば、その人自身はおそらく、誰かに同情される立場だとはつゆほども思っていない。ケンカばかりして辛いと思っていないし、炎上がいやだと思っていない。ケンカは聖戦、炎上は商売のタネであり、支持者からは「今日もご活躍ですね」と、中立の人からは「勇壮に戦っている」と、アンチからは「調子に乗ってるからぶっつぶしたい(けれどピンピンしている)」と思われている。

そういう人だからこそぼくが(全く本人に知らせることなく)「かわいそうに……」「かわいそうにw」と同情する。この構造はいかにも矮小で下劣だ。だから人前ではやらない。


ぼくと同じことをどの人間もやっているかというとそんなことは全くないと思うが、でも、けっこうな数の人がやっていることもまた事実ではあると思う。ただし互いに「あなたもやりましたか、ぼくもやっています」と明かし合うようなことはない。下品だからだ。性格が悪い、矮小で下劣で下品、我ながらここまでこき下ろすほどのことなのに、今でもやめられないのは、ぼくが自分に対して付けられた傷をいつまでも眺めるタイプの心性の持ち主だからであるし、いずれにせよ他人に認められたいとかいずれ報われたいといった欲求とも関係がなく、開き直るわけではないのだがこれはタバコへの依存のようなもので、「やめたほうがいいのに」と眉をひそめられていてもなかなか習慣から抜け出せない。


タバコや酒の依存に対して、依存症の人びとが集まって車座になってお互いの気持ちを述べ合うというオープンダイアローグ的なことをやると、ときに依存症脱却のきっかけになったりもするという。しかしこの話題に関して誰かと語り合いたいとは全く思わなかったので、ぼくはこうして自分の心性を見つめ直して文章化することで行為のキモさと自分自身に対する有害さを可視化することにした。


これによって、もう、過去にいやな思いをさせられた人のことなんか忘れてしまったほうがいいんだよな、とあらためて認識することができた。ぼくはこの記事をきっかけとして、もう二度と、あれこれの人びとを検索欄に入れて現況をチェックするようなことはしない。そういう人たちとは全く関係のないところで明るく楽しく暮らしていく。

……と、「しょうもない人たちから断絶して今は幸せ」と書くこと自体も、レイヤーは違えど復讐のひとつの様式であり、蔑みが別の形になって表れているだけなのは言うまでもない。


こんなぼくにはもちろん後ろ暗い部分がある。傷つけられた人に対する執念が形をかえてずっと残り続けており、それをどう落ち着かせようと思っても、あるいは気にしないで無視してしまおうと思っても、何をやっても揶揄になってしまうということだ。人前で話そうとは思わないし、解決する方法も思い付かない。ただ、これまで自分が傷つけてきた人も、同じようにぼくをどこかで蔑んでいる、そのことを歯噛みしながら受け入れるしかないのだということだけはスッと思い付いて腑に落ちる。