2023年3月27日月曜日

近距離専用トゥンク

バイトの医者が来たり来なかったり、短期雇用の医者がCPCを放り出して立ち去ったりする昨今、人に迷惑をかけずに暮らし続けることの難しさを考える機会が多い。かくいうぼくはこれまで多くの人に尻拭いをしてもらいながら、そのことをカラッと忘れて「自分はよく努力したなあ」とか「乗り切った俺えらい」などとポジティブに生活してきたので、この問題にかんする自分ごと感も他人事感も両方けっこうある。

誰もが自分の重心を機転として、そこからの距離に応じて想像力を発揮している。目安として、重心からの距離が50cmを超えるとがくんとイマジネーションが弱くなる。まあ50cmというのはだいたいなのであまり厳密に言うものではないが、ぼくに限らず多くの人は手の爪より足の爪を切るのを忘れがちだし、ワイシャツに比べてチノパンは使い回しがちだし、顔面や手のスキンケアに比べると足のカカトは相対的に適当だと思う。

さらに重心からの距離が3メートルを超えた物体に対してはまるで想像がはたらかないものである。隣の部屋の住人から壁ドンされたときのことを思い出してみればよい。車を運転中、信号が赤から青に変わったときに前の車が止まったままで2秒ほど経過するともうクラクションを鳴らしたくなる人もいるだろう。

何キロ、何十キロ、何百キロも離れたところにだって人はいるのだが、いなくても自分の暮らしには特に影響がないと思えてならない。北海道の東で地震があっても東京のタイムラインはほとんど反応しない。ジョン・レノンもじつは言うほどイマジンしてなかったんじゃないかと思う。数千キロ先の他人が50cm以内でうろちょろしているSNSではそこのところが狂っている。想像力の範囲外の人が、ガワだけの状態で至近距離に突然出てくるから、こちらとしても、「ああ近い近い。想像できる」なんて勘違い。けど本当はできない。相手のことは一切わからないし、相手の言葉の裏にある前提だって共有できない。なのに「こいつのことを想像するにとんでもないやつだな」なんて勝手に話を進めてしまう。これはバグである。

そういうバグを「仕様」と言い張って、開き直って暮らしているのが令和のぼくたちだ。うちの職場に迷惑をかけて去っていった人たちがぼくからどんな迷惑を被ったのか、ぼくには想像が及ばないけれどそこには必ずなんらかの迷惑が存在したはずなのだ。理屈でわかるのだが感情がその先をひらいてくれない。明かりが射さない。50 cmを超えると光が届かない。誰もがエルキュール・ポワロや古畑任三郎みたいに、単発スポットライトの下に佇んで腕を組んだり指をさしたりしている。かつて、MOTHER3のエンディングで画面が暗転したとき、暗闇の中にプレイヤーである自分の顔が写り込んだ瞬間にぼくはゲームを卒業したと感じた。しかしそれは間違いなく人生という虚構の中にぼくが日夜ひたりつづけていることを一瞬だけバシャリと可視化する、ミルククラウンの滴のひとつぶであったのだと思う。