2023年3月30日木曜日

病理の話(761) 教える機会を自分で作る

「人に教えることで自分が勉強できる」の法則はけっこう普遍的である。


・何度も他人に説明しているうちに自分の中で要点がまとまっていく

・自分が説明したあと、相手が何か質問してくる部分はたいてい、さいしょの説明でうまく伝えられなかった部分であるから反省材料になる

・自分よりも上手に教えている人のすごさがわかるようになる(のでそこを目指せるようになる)

・自分が誰かにものを教えるときの教科書・資料のすごさがわかるようになる(のでそこをより深く読めるようになる)

・説明した相手が「なるほど、こういうことですね!」と本人の立場から理解を表明するとき、その相手が持ち込んだ新たな情報からこちらが逆に教わることがある(教育はいつでも双方向的である)


「教える側に回る」ことの利点は複数ある。

そして、病理医という職業は本質的に、「誰かに何かを教える側」である。主治医をはじめとする医療従事者に、「ある細胞をみてAという診断をする根拠」を毎日説明し続ける職業だ。だから、キャリアを積むに連れて病理医は次第に教えるのがうまくなっていくし、人に教えた量にあわせて勉強のしかたもどんどん上手になっていく。病理医は処置も手術も患者との会話も処方もしないで、そのぶんずっと勉強しているのだけれど、そこにさらに「教育」が混ざることで、勉強の量・質とも非常に高くなるのである。

そんな病理医の姿を臨床医がみると、しばしば、ドクターズドクター(医者の医者)という二つ名を持ち出す。たぶんに広告的なニュアンスが感じられるあだ名だが、どちらかというと我々はドクターズティーチャーである。「先生の先生」と日本語にしたほうがおもしろい。言うまでもないが前者の「先生」は医者、後者の「先生」は教師のことである。



……ただ、以上はぼくの理解であって、必ずしも世の病理医がみな同じ意見ではない。

たとえば、病理医がAと言ったらAなんだ、という診断をするタイプの病理医もいる。主治医に自分の思考過程を説明しようとはしないで結果だけをズバンと返す。一部の主治医も、そういうドライな病理医のほうが「検査」っぽくて使いやすいと思っているフシはある。

また、教師系の仕事をなるべくせず、その分の時間で研究に没頭する病理医もけっこういる。細胞をみて診断をすることよりも、その病気のメカニズムや治療方法の開発などに興味があるので、主治医とコミュニケーションする時間があったら論文を書く、みたいな人だ。医学の発展に欠かせないし個人的にも夢があっていいと思うが今日の話とはずれる。

あるいは、自分が学ぶので精一杯だから教師役なんてとてもとても、と謙遜するような病理医もいる。けっこういる。細胞から診断することのわけを知りたいならもっといい先生がいます、もっといい本がありますと言って、自分では説明せずに「識者」につなぐ。わりとよく見かける。けれども冒頭の話を思い出してほしい。誰かの教師でいることは何よりも自分の勉強になるのだ。「自分なんてとてもとても」の時期が長いと、それだけ効果的な勉強をする機会を逃している、とぼくなんぞは思うのだが、ま、勉強というのはペースをあげればいいというものでもないので、その人なりのペースでゆっくり登坂していけばよいのだろう。

そうそう、「周りに教える人がいない」という病理医もいる。主治医があまり病理診断科とコミュニケーションをしたがらない、病理検査室に細胞と検査伝票を届けたらあとは結果が出るまで一切病理医のことを忘れている、みたいな環境は頻繁にある。そういうところで主治医のもとに出向いて「診断のわけを教えます」とやったところで相手は聞いてくれないだろう。若手病理医が研修に来るような病院でもないとすると……病理医は貴重な勉強の機会を失うことになる。では、どうすればいいか?


ひとつの答えは「ブログを書く」ことかなと思う。がんの診断根拠、免疫染色の効果的な使い方、病理検査の依頼書に書いてほしいことなど、病理医は普段なにを考えているか、どう勉強しているのかを記事にまとめてネットの海に流すのだ。すでに多くの人がやっていて、いい教科書もやまほどあるから、自分がさらにそこに加わる意義はない、みたいな考えではもったいない。くりかえすけれど誰かに教えるつもりで資料をまとめ、頭の中を整理し、誰かに語りかけるように論調を組み立てること自体が自分の勉強になるのだ。もうあるから要らない、ではない、自分のために要るのである。自分が昔書いたブログの記事をときどき読み返すと、ここはずいぶん偏っているなあとか、この書き方だとまちがって伝わるかもなあとか、これは現場で引っかかりがちな疑問についてあえて避けてしまっているな、みたいなことが次々と思い起こされる。自分で自分にフィードバックをかけていく。誰かの教師でいることが大事なのではない。自分が自分にとっての教師でい続けることが大切なのだ。それをやらなければ、長い人生、ずっと病理医をやり続ける=ずっと勉強し続けるなんていかにもしんどいだろう。ブログをやるといい。ただし、プラットフォームとしてnoteを使うのは、スキやらフォローやら、承認欲求を満たす仕組みが多すぎて、気が散るからあまりおすすめできないのだけれど……まあ、この際、どこでもいい。