2023年3月1日水曜日

病理の話(751) 病理診断実況のコツ

病理医は、細胞を顕微鏡で見て、そこにあるものを読み取り、意味を与えて、診断を下して報告書に記す。

あるものをあるまま見ればいいんだから簡単だろうって? うん、簡単なこともあるが、そうだな、じつはけっこうマニアックな難しさがあるので、今日はその話をする。


まず、顕微鏡を覗いたときに「何に着目するか」がとても大切だ。視野に広がる無数の細胞の中から、患者の現在の状態を反映する細胞もしくは細胞集団を選び取る必要がある。


さあ例え話の出番だ。

あなたはプロ野球のバッター。マウンドではピッチャーが振りかぶっている。ここで、目に映るものすべてを「実況」するとどういうことになるか?


「日はとっぷりと暮れており、ここは野外球場で、風はライトからレフトに向かって吹いていて、外野スタンドにも内野スタンドにも客がぎっちり詰まっていて、今はライトスタンド側が立ったり座ったりしながら激しく応援をしている。内野手は定位置からやや左にずれている。ランナーは一人も出ていない状況だ。ピッチャーがモーションに入ると同時にショートとサードが少し腰を落として、セカンドも続けて腰を少し落として、うしろからキャッチャーが座り直す音がわずかに聞こえて、ピッチャーはワインドアップから、あっ今少し風が吹いてピッチャー後方のロージンバッグから粉が飛んで、センターはリラックスしていてレフトはひざに手を置いてショートがカカトを少しあげてピッチャーが左足を挙げてバックスクリーンのモニタがピッチャーを後ろから見た映像が映って正面から見た自分とキャッチャーと審判の顔が映っているいつものテレビの画面に切り替わってここでセカンドがさらに深めに腰をピッチャーが体重を少しずつ前に移動してライトの歓声が一段と高くなって鳩が二羽飛んでいたなあと思ったらピッチャーの手からボールが離れたと思ったらサードが腰を落としてショートが少しはずんでそういえばバットを少し長く持ちすぎていたかもしれ\ストラーイク!/」


見すぎである。


もう少しピッチャーの様子に集中したほうがいい。これでは打てないのだ。あるものを全部語ってもだめなのである。そもそも上の文章、ぜんぶ読んだ人も半分くらいしかいないのではないか。報告書になんでもかんでも書いてもだめだ。読む方の気持ちも考えなければいけない。


だから大事なものを選び取るのだ。情報を刈り込む。

何も考えずに顕微鏡を覗くと、そこには粘膜を構成する上皮細胞のほかに、膠原線維とか、血管内皮とか、血管周囲に少量だけもれでた炎症細胞、浮腫を示す空隙、脂肪、検体作成のときにちょろっと漏れたのであろう赤血球、パラフィンの粉、ホルマリンに混じっていたゴミなどがぜんぶ含まれている。

それらの中から、「今回、自分が患者に診断を付けるために必要な情報」だけを見る。

先ほどの野球の例えでいうと、自分が向き合うべき「ピッチャー」の、「手元」にあたる部分がどこかと考えるわけだ。たとえば、がんの診断をするならば、あまたある情報の中から「上皮細胞の異常」を特に鋭敏に拾い上げるように、脳のチューニングを合わせていく。

ちなみに、野球の例えでなんとなく思い付いたことをついでに書いておくと、「ボールが手を離れてからでは遅い」みたいな感覚も使う。「このような手の動かし方ならここにボールが来るだろう」と予測する、みたいなことを、顕微鏡を見るときにもやっている。「このような細胞配列だと、放っておけばきっとこういう悪さをするだろう」みたいな予測こそが病理診断の醍醐味だなあと思う。すでにミットに入ってしまったボールを見てもしょうがないのだ(でも、ちゃんと見てカウントはする)。


そして、いきなり逆説的なことを言うようだけれど、ピッチャーの手元だけ見ていてもいいバッターにはなれない。上皮細胞の良し悪しだけ見ていて診断が終わるのは研修医までだ。上皮細胞に異常があるとき、多かれ少なかれ、その上皮と相互に影響を与え合っているほかの細胞や環境にもなにかしらの変化があらわれる。

野球のたとえで言うと、ピッチャーがモーションに入ったときに内野陣がいっせいに「少しだけ左に動いた」のであれば、バッターがおもわず左に打球を打つようなボールをこれからピッチャーが投げる、ということだろう。右打者の膝元に落ちるような変化球をひっかけさせて、三遊間にゴロを打たせるような球をこれからピッチャーが投げるからこそ、内野陣はそれに合わせて重心を三塁方向に移動させて対処しようとしているわけだ。

これと同じで、がんの診断をするときには上皮細胞だけを見るのではなく、その上皮の挙動を受けて反応している周囲にもすこしだけ目を配っておく。すると、上皮細胞だけを見ているのと比べて、「診断のキレ味があがる」のである。


そうやって勘所を押さえて、「所見」をとる。細胞の挙動の意味を感じ取る。これまでの研究で示されている結果と照らし合わせて、細胞がこのような状態になっているならば将来患者はこうなるはずだという未来像をきちんと示す。

その示し方はあたかも、一流のラジオ中継のように的確であるべきだ。

さっきみたいに、球場の何もかもを目に収めてかたっぱしから実況しても、聞いているほうは何がなんだかわからない。

勘所だけをビシッと。しかし、なるべく情景が伝わるように。


「夏の夜の甲子園からお送りします 巨人対阪神の第22回戦 ピッチャーは先発の佐藤、次が55球目。内野陣が腰を落とし、さあピッチャーワインドアップから第2球目を 投げた インコース振りに行った鈍い音、引っかけた サード高橋定位置落ち着いて取った 一塁送球 アウト」


「広範な腸上皮化生を背景に一部胃底腺の残存する粘膜で軽度の慢性炎症細胞浸潤を伴っています。体中部前壁やや小弯、肉眼的に隆起と陥凹の混在した病変の陥凹部に一致して 異型を有する高分化型管状腺癌がみられ、一部中分化の混在。低分化成分はありません 切片12で粘膜下層の浅層に浸潤。進達距離は250 μm 消化性潰瘍の合併なし。脈管侵襲はありません、リンパ節転移陰性。断端陰性」


まあこのまんま書くわけじゃなくてもう少しプロっぽく書いてるけど、いずれにしても、なるべく滑舌よくしゃべるのがコツ。文字であってもだ。