2023年3月15日水曜日

病理の話(756) どこまでやれるかやるべきか

ある病気の診断を行った。細胞の形から「A病」であると診断できる。わりと難しい診断、すなわち「名付け」であった。Aであると名前を確定させるところまでで、まずは一段落である。



ただし、これだけで診断という仕事が終わるとは思っていない。主治医はその先を聞いてくるからだ。

「A病の中にはさあ、病気の細胞がBというタンパクを持っているタイプと、持っていないタイプがあるんだよ」

「ほう?」

「で、Bというタンパクを持っているやつには、特効薬があるんだよ」

「特効薬か」

「そうそう、効きがめちゃくちゃいいの。ただしBというタンパクを持ってない細胞には効かないわけ」

「ツボにはまるかどうかがそのBの有無で決まると」

「そうそう たとえるなら」

「たとえなくていいです」

「姉がいると姉萌えアニメを素直に楽しめなくなるけど、姉がいないと姉萌えアニメに夢を見られるようになる、みたいなことだよ」

「たとえなくていいです」



というわけで、A病という診断名がついたところで仕事を終えてはいけない。Bというタンパク質が細胞の中に存在するか否かを見極めるところまでやる。そこまで見分けると、治療方針が変わってくるのだから、これはもう、絶対にやるべき業務だ。診断は名付けだけでは終わらない。名前を付けた病気の性格みたいなものまできちんと記載するということだ。

で、A病、Bあり、と診断をしたとする。ではこれで我々の業務は終わるか。


ここからがじつはけっこう、意見がわかれるところである。


たとえば、A病、Bあり、のほかにも、「元々はCという病態だった。それが育ってAになった」のように、その病気の「過去の姿」を予測するようなことも、病理診断の延長で行うことはできる。

過去の姿を知ったところで、現在の病気の治療法にはじつは関係がない。A病の姿が元々はCだろうとDだろうと、「今Aである」ことだけが重要なのだ。

しかし……それはあくまでA病の話。ほかの病気の場合は、「過去をさぐる」ことが治療方針につながることもある。病気によってはルーツをきちんと探るところまでやったほうがいい。したがって、「過去を探る手段」というものが、大学や研究室には存在する。ちょっとだけ具体的に言うと、遺伝子のキズをあきらかにしたり、遺伝子のまわりについているゴテゴテとした装飾を調べたりすること。

これらには、日常の診療とは比べものにならないほどの金がかかるということを追記しておく。


で、この、「過去さぐり」を、A病に対してやるべきか?


まず、患者からはお金をとれない仕事になる。あくまで治療や患者の将来に結びつく検査だからこそ、患者はお金を払い、国の医療保険がその多くを保険によって肩代わりしてくれる。しかし、「A病の過去を知ること」は、少なくともその患者の役には立たないのだから、患者が金を払う筋合いはない。

ではやらなくていいか?

いや、やったほうがいい、という考え方もある。多くの病気の過去があきらかになって、情報が蓄積していくことで、病気の「メカニズム」がより細かくわかるようになるし、メカニズムがわかれば新たな治療法の開発にもつながるからだ。

「年に1回テレビが壊れる家」があったとする。そこでまたテレビが壊れたときにやるべきことは、優秀な町の家電屋さんと仲良くなってテレビを格安で直してもらうことだろうか? いや、ま、それはそれとしてやるんだけど、根本のところ……。コンセントの電圧がおかしいとか、ネコが20匹いていつもケーブルをかじっているとか、そういう、「テレビが壊れる原因となっている部分」を叩かないと、これからも毎年テレビは壊れ続けるだろう。元栓を閉めてはどうか、ということだ。



ではあらゆる病気に対して過去をさぐりまくるのがいいのか。理想を言えばそうだ……。しかし金と時間と労力がかかる。世の中には無数の病気があり、そのすべてにおいてお金を使い続けることは、単一の施設、単一の医師・研究者がやれることではない。そんな財源もないし体力もないからだ。だからどこかで線をひかなければいけない。どこで引くことになるだろう?


すっごく残酷なことを言うと、まず、その医者のまわりにある「コネ」の有無によって線の引かれ方がかわる。ある担当医の知人・上司・後輩関係者をざっと見渡したとき、A病、D病、H病、M病の研究に詳しい人がいてすぐに相談に乗ってくれるならば、これらの病気に関しては積極的に「過去」まで探られていることが多い。しかし、まわりにその病気の専門家がぜんぜんいないと、「過去を探るためのお金と時間と労力がおいつかない」ので、診断は最低限の、「患者の治療に必要な項目のみを調べて終わる」ことになる。


こうやって書くと少しざんこくに見えてくる。見えてこないか? ぼくには見える。けど、そういうものなのだ。現実の医療は。


だから患者は常に自分の病気を「もっとも専門性が強い人」に見てもらいたくなる。「過去までさぐらなくても、診療には問題ない(その患者個人に不利益はない)」のだから、遺伝子までバリバリ調べたがる超絶マニアに毎回見てもらう必要はないのだけれど……なんか……気分的に。


そして、一部の病理医は、「自分の知人関係のタイプによって、検索できる病気としにくい病気が分かれてしまうのは理不尽ではないか」という気持ちになる。ではどうするか。


コネめっっちゃつくろう、みたいになる。リアルの知り合いを増やしつつ、インターネット内の勉強会に次々参加して、地理的には遠いところに住んでいる病理医・研究者とも頻繁にやりとりを重ねていく。そうやって、いつどんな病気が来ても誰かには相談できるように、ネットワークを広げるべくがんばりつづけるわけだ。



……や、それだって、限界はあるよ。そういう理想と理念と現実と限界みたいなものをずーっと毎日考えている人が、頭の中でそれこそ毎時間毎秒考えているセリフが、今回のブログのタイトル、「どこまでやれるか、やるべきか」なのである。甘くはない。