生命科学研究の歴史は「一筋縄ではいかないことを知る歴史」だったと感じている。
細胞の中には、遺伝子というものが組み込まれている。遺伝子というのはつまりプログラムだ。
細胞内にはこのプログラムを読み出す機械が搭載されている。
また、プログラムを読み出した結果をもとに、タンパク質を合成するシステムというのも搭載されている。
このことを最初に解明した人というのは1人とか2人とかではない。
さまざまな人が、気の遠くなるような数の研究を繰り返して、次第にみえてきたことだ。
で、人類は興奮した。
「プログラムがあり、タンパク質が合成されて、人体がかたちづくられていく! なんてすごい仕組みなんだ!」
そして、人類はあるとき気づいた。
「ということは……このプログラムにエラーがあれば、タンパク質もまたエラーを含んだものとなり、結果的に人体にもエラーが搭載されてしまうのでは?」
つまりは、人類はこう悟ったのだ。
「あっ、そのプログラムエラーとは、がんなのではないか? がん細胞というのは、みな、プログラムエラーの結果、生じるのではないか!」
まあその通りだったのだが、冒頭のはなしに戻る。
生命科学研究の歴史は「一筋縄ではいかないことを知る歴史」。
生命科学者たちは、がん細胞をえんえんと研究しつづけた。
すると、ある限界にぶちあたった。
がん細胞を「培養」して、シャーレの中で増やして、実験を行っても、なかなか生体のなかにがんがあるときのような挙動を示さない、ということに気づいたのだ。
なぜだろう、人体の中にあるときには、こうやって増えて、こうやってしみ込んで、人体にダメージを与えていたがん細胞なのに……。
栄養を十分に与え室温などもきちんとコントロールした培養皿の上だと、がん細胞はまるで違った動きを示す。
おかしい。
がん細胞それ自身はたしかに「がん」なのだが……。
実際にがん細胞が持っているプログラムにはきちんとエラーが示されているし、タンパク質だってエラーを起こしている、だから挙動も異常なのだが……。
人体の中でがん細胞が示す動きを、実験室ではうまく再現できない。
がん細胞の研究というのは、培養皿の上でがん細胞をいろいろいじるからこそ、許される。そういう側面がある。
なぜかって?
もし、人体の中にがん細胞がいる状態でいろいろ実験を加えたら、それは文字通り「人体実験」になってしまうからだ。
人体実験イコール悪ではないけれど、あくまで最終手段である。できれば、かんたんに、人に迷惑をかけずに、研究室で「培養実験」である程度のめぼしをつけたい。
だからまあ研究者というのはマウスとかラットを使って、「人間とは違うけれど、ま、似たようなもんだよね研究」を繰り返した。けれど、やっぱり、「ヒトでも同じことが起こるだろうか」という問題からは逃げられない。
やっぱり培養皿の上で、ヒトの細胞をいじりたいなあ、と思ったのだった。
で、ま、最近の研究の成果としてわかったことを、簡単にたとえばなしで説明する。
渋谷の交差点で髪を振り乱して踊り狂うパーリーピーポーに任意で事情聴取をしよう。
それまでハイテンションMAX状態だったパリピポは、警察署につくと、しゅんとしてしまう。
まわりはむさいおっさんだらけだ。
カツ丼が出てくる。
フッフーとか言っている場合ではない。マジ卍どころではない。
両膝をそろえて、肩を縮こまらせて、早く帰してくれないかなあと母親の顔を思い出したりもするだろう。
これでは、警察官は、渋谷でのパーリーを再現することはできない。
渋谷でキマっているところをこっそり観察すればいいのかもしれないが、渋谷の交差点に人がごった返しているところに、警察官が何人も「監視」に現れたら、それはほかの人々の迷惑にもなるだろう。
さあ、ここで問題である。
「警察署につれてきたイキリを、どのように本来のイキリのまま語らせたらよいか?」
答えは、「警察署内に、パーリーな方々が好みそうな環境を作る」である。
ミラーボール in。
DJ in。
インスタ映えしそうなカフェバー in。
3代目JSB in。
そうして「環境をそろえた上で、アホを解き放つ」。
そうすればピーポーは元通りパーリーに入る。
そこをじっくりと観察すればよい。
最近、生命科学研究に新たなトピックスがうまれた。
がん細胞そのものを研究するのではなく、がん細胞の周囲にあるものを重視して観察しようという研究。
「がん環境の研究」という。
正確には「がん微小環境」というが、まあこの際、微小かどうかはどうでもいい。
ぼくはこの、「がんを見るならば環境もみよ」という考えは、とってもおもしろいなあと感心している。
ついでにいうと別にパーリーピーポー的な人のことがそこまで嫌いではないので、例え話とはいえ悪いことをしたなあともちょっとだけ思っている。