2018年7月27日金曜日

松本で買った北杜夫がまだ未読のまま積んである

ちかごろ、本を読むと少し眠くなる。これはよくないなあと思う。ときには本当に寝落ちしてしまうこともある。

たぶん、「本を読む自分でいたい」から、無理して本を読んでいるのだろう。

つまりは心の底から読みたくて読んでいる本じゃないから、途中で眠くなってしまうのだ。読み続ける気力よりも体力回復をうながす睡眠力のほうが強い。

そんな読書はつまらないからやめろといわれた。誰に? なんかそのへんを通りがかった宮沢賢治に。




そもそもぼくは、これまでの人生において、いつもいつも「読書サイコー!」と大喜びして本を読んできたのだろうか?

決してそうではなかったと思う。あたかも読書家みたいな情報発信をしてきたが、それはあくまで「読書家を気取るとSNSではちやほやされるから」である。読書が楽しいときのことだけ発信して、読書がつまらなかったときのことを発信しなかった。バイアスだ。

冷静に考えたらぼくはそこまで読書を毎回楽しんでいるわけではない。

けっこうな頻度で、「最後めんどくさくなったけど一応がんばって読み切った本」とか、「ゆっくり読み過ぎて読み終わるころには冒頭に何が書かれていたか忘れた本」とか、「寝ながら読んだためにほぼ読んでいないに等しいのだがとりあえず最後までページをめくった教科書」と出会っている。




でも、そうやってでも本とふれあい続けているうちに、なんだろう、たまに、「こ、これは最高だなあ」と思える本と出会う頻度もまた少し上がっていくような気がする。

こんなことを書くと、なんだか、無理矢理グラウンドを何十周も走らせる体育会系のスポーツクラブのやり方も一理ある、みたいな論調に見えるし、あまりいい気分はしないのだが、しかし……。

「多少自分を痛めつける程度の読書をしたほうが結果的によい読書をできている」ことは事実である。

そんなマゾヒスティックな読書、お子様にはおすすめできません。

読書は大人になってから。






ぼくはもともと、学者とか哲学者の類いが、新聞とかテレビで「私の愛読書」みたいなものを公開するのがとても嫌いだった。「100冊には絞れません」とかいいながら、いかにもインテリゲンチャといわんばかりのブックリスト。端的にその自己顕示欲マジでうぜぇなと思った。一般人が俺の読む本をまねしたいのか、いいだろう、見て震えろ! とばかりに、「図書館の棚のみえやすいところに置かれがちな本が6割+著者はそこそこ有名だがタイトルがマイナーな本4割」の構成でドヤと広げられるリストが心底いやだった。なにをすかしていやがる。ソムリエ気取りか。

でも、そんな跳ねっ返りだったはずのぼくは、なんだかSNSをちらちら見ながら、「読書してる俺けっこうほめられるなあ。」なんて、ありきたりな承認欲求をぴちゃぴちゃ満たしている。やってることはエライ学者の皆様方の劣化コピーみたいになってる。うける。

40になる歳に、すでに「本を読んで眠たい」みたいなことまで書いている。脳の劣化が深刻だ。





あーあ、やっぱ、偉くなる人たちは違うな!

ぼくは本をみると、中身が自分を大きくしたとか、世の深淵に触れたとか、そういうことよりも、とりあえず、「この本読んだぜってみんなにツイートしてやろう」みたいな欲望ばかりがふわふわわいてくるんだ。まったく残念なことだ。そんなことだから、寝るんだ。ああそうだよ、それが真実なんだ。

今は「極論で語る総合診療」を読んでいる。これがなかなかおもしろくて、2回ほど寝たけれど起きてまた戻って読み直したりしている。読み終わったらツイートするんだ、とてもたのしみだ。ぼくは結局、そういう読書しかできない。