「閑散とした早朝の繁華街の交差点にどこからやってきて、道を掃き清めているおじさんみたいな感じ」と言い表した人がいた。
先日のワールドカップの際にはまた違う人から
「普段、静謐な時間にそっと更新されているブログが、今日は渋谷の雑沓にもみくちゃにされている」
という主旨のツイートがされていた。
タイムラインには24時間誰かがいる。
体内に常に血液が流れているようなイメージを持っている。
流動が止まることはない。ただ、流れが多い、少ない、早い、遅いという違いはある。
早朝4時ころというのは一番動く人が少なく、空気が冷え切っていて、足音が遠くまで届くかんじがする。
何か世に刺激をもたらすようなことがあると、普段はおとなしくしている人たちがぐんぐんとうごめいて、平時には見えていなかった交流がなされ、スキマが拡張し、ほてる。
まるで炎症の過程をみているようだなあと思う。
京都大学の真鍋俊明先生の本に書いてあった言葉を引用する。少し長いがそのまま書く。
”少し余談になりますが、正常の構造がどうなっているかを知ろうとする場合、生理的状態のみを見つづけても、その本当の姿が見えてこないことが多々あります。ところが、病的状態―これを私は”ゆさぶりのかかった状態”といっていますがーをみることによって、正常構造あるいはその機能が浮き彫りになってくるのです。
(中略)
異常状態を深く吟味すれば、正常構造やその機能を類推したり、より良く理解することができます。”
(皮膚科医のための病理学講義 ”目からウロコ”の病理学総論 「生命」からみた病気の成り立ち(2018, 金芳堂)より抜粋・引用)
ぼくは毎朝早い時間に、血流が乏しく、組織間のコントラストが弱い状態の世の中を眺めて、なにごとかを思っている。ワールドカップ決勝トーナメント1回戦の日、試合が終わったあとにはからずも「滲出」してしまった人々は、くちぐちに、これから職場や学校にいくのだということ、一日をどう過ごすつもりかということ、先ほどまでの時間に対する感謝と悔しさ、これから何をどう楽しみにしていきたいかということなどを、ぼくの前で浮き彫りにしていた。
ああこれは炎症をみて生命を理解しているのだなあ、と思ったりした。