2018年7月9日月曜日

病理の話(219) 膵臓のできるまで

人間の膵臓(すいぞう)は、細長くて中身のつまったカタマリで、だいたい、手をパーにしたときの親指から小指くらいの長さ、くらいの長さがある。

膵臓の役割は大きくわけて2つある。

 1.食べ物の中に含まれているタンパク質を消化するための「膵液(すいえき)」を作って消化管の中に流し込む

 2.インスリンなどのホルモンをつくって血管の中に流し込む

である。流し込みまくりだ。流し込む先が2か所ある。

で、「1.」のために、膵臓の先っぽは十二指腸に衝突している。突っ込んだ場所にファーター乳頭という出口があり、膵臓が作った膵液はこの出口から十二指腸の中にばらまかれる。うん、人体というものは、ほんとに、うまくできている。

というわけで、膵臓という臓器は、「十二指腸に側面から突っ込んでいる、カタマリ」だ。ぼくはもうそういうものだと思っていた。




ところが。

先日、ある生命科学実験の本を読んでいたら、「マウスの膵臓」の話がでてきて、これに驚かされた。

マウスの膵臓は、ヒトのように、カタマリの形をしていなかったのだ。

「腸のまわりに、なんだか雑にへばりついている」のである。スプラトゥーンのインクみたいなかんじで。

人間の膵臓とはまるで違っていた。カタマリじゃないから、一見、「臓器」という感じがしない。

本当におどろいた。まあ、マウスを使った実験をなさっている方からすれば、何をいまさら、という感じなのだろうが……。

種が違うと臓器ってここまで変わるのか、という衝撃を受けた。

「お魚だって心臓とか消化管とかまるでヒトと違うんだから、動物の種類が変われば臓器だって変わるの、あたりまえじゃん。」

といわれても仕方ないけれど。

おなじほ乳類であれば、臓器のカタチなんて大差ないだろうと、どこか思い込んでいた。






一般に、生命は高度になればなるほど「分業」がはっきりしている。

膵液をつくる細胞がきっちりひとカタマリになって膵臓となっているし、胆汁をつくる細胞がちゃんとひとカタマリになって肝臓となる。

似たようなお店は1か所にかたまっていてくれたほうがユーザーも便利だし、お店側も「だいたい似たようなインフラ」を使いまわしているので便利だ、ということなのだろう。ただ、最初からそういう便利な配置をしていたわけではないんだよな、ということを、マウスをみていると気づかされる。




長い歴史の中で、生命はほんとうに気まぐれに、さまざまな「変化」を来した。

その変化の中に、「膵臓は一か所に固めてカタマリにしよう」というものがあったのだ。

でも、逆に、「膵臓をもっとばらばらにして、あちこちに散らばらせる」ものもあったはずだ、というのが今の科学の考え方である。

生命に起こった変化というのは、最初から「意図」とか「目的」をもって起こったわけではない。

変化は常にランダムに起こる。

膵臓が縦長になった生命もあったと思う。

膵臓がマウスよりももとずたぼろになった生命もあったのではないか。

膵臓が肝臓とくっついてしまった生命もあったかもしれない。

そのような多様なバリエーションが、それぞれ勝手に「継代」していくうちに、たまたま「生きていくのに得が多かったグループ」だけが生き残った。

残りの、「生きていくのにちょっと不利だったグループ」は滅んだ。

そういうことだと考えられている。

今、少なくともマウスより高度だとされているわれわれヒトは、「平たい顔族」風にいえば、「膵臓が固まっている族」なわけだ。膵臓が固まっている族は、適者生存の理を生き延びたのである。





さて。

進化に終わりはない。

変化に終わりがないからだ。

たぶんぼくらヒトも、気づかないうちに、あちこちの遺伝子がランダムに変化している。ぱっと見では気づかないくらいの臓器バリエーションも出てきている。

これらが長い長い年月にさらされているうち、次第に、「生きていくのに有利なグループ」が残っていく。

ずっとずっと未来、ヒトが進化した末に現れる「ヒトならぬ生命」において、膵臓はどういう形をしているのだろう。

今の我々が考えもつかないような形に変わっているかもしれない。

それを見るのはぼくらヒトではないのだけれど。