若いころに大人(主に指導者)のやりかたをみて、
「なぜそんなまわりくどいことを言うのだ」
「なぜそんなわかりづらいことを延々としゃべるのだ」
と不思議だったのだ。しかし、理由がだんだんわかってきた。つまりぼくは大人になったのだ。大人のやることがバカっぽく見えなくなってきている。それはすなわちぼくが大人になったということだ。
なぜ医学教育の際に、過去の偉人の伝記みたいな話をえんえんとしたがるのか。
ぼくにはそれが全くわからなかった。
ウィルヒョウがどうした、ファーバーがなんだ、ワインバーグがどうした、花房秀三郎なんざ知らんぞ、と思っていた。いいから最新の病理診断の話をしろ、化学療法の要点を話せ、RASはいいからその先のシグナルをよこせと思っていた。
けれどぼくは大人になったので、そういう「歴史」がつむぐ壮大さみたいなものにだんだんと惹かれるようになってしまった。
だからぼくは歴史に学ぶ必要がある。
「若者は大人が涙声で語る歴史にはたいてい、興味がないのだ」ということを、歴史から学ぶ必要がある。
ぼくは自分がたどってきた歴史を今必死で思い出している。自分史に学ぶのである。
若い頃、そういう話がイヤだった理由はなんなのか。歴史を学べと称する大人の何が気にくわなかったのか。
そのあたりの記憶をなんとか取り出そうとしている。
こうして自分の歴史を語りブログにしたためることを、蛇蝎のように嫌う若い人間というのもいるのかもなあ、などということを、すっかり記事が書き上がったあとにふと思う。
大人というのはいつもうっとうしいものだ。
そして、「俺ってうっとうしいよね」と卑屈になる大人というのが、ぼくはそもそも大嫌いだったはずなのだ。