2018年7月26日木曜日

病理の話(225) 資質とか指向性とかそのへんのアレ

あなたが病理医に向いているか、向いていないか、という話をする。この話は何度か書いているのだが、そのたびにぼくの書く内容が少しずつずれている可能性はある。つまりその程度のことだ。確固たる信念とか断固たる決意のようなものはでてこないので気楽に読んでほしい。



まず病理医に向いている医学生というのはいない。病理医に向いていないという医学生もいない。

だから安心してそういう向き不向きの話を捨てて、いさぎよく勉強をしてもらいたい。結論はこうだ。

では結論を先に書いたので以下は詳細を述べる。





病理医というのはほかの医者と同じく、誰でもできる仕事である。医師免許さえもっている限り、ぼくらの仕事に面と向かってダメ出しをできるほどエライ人間など社会にはそうそういない。誤解を恐れずにいうがぼくらはやりたい放題だ。どれだけ無能でも、どれだけ悪を背負っていても、医者になれば、刺されて殺されるまでの間は医者として働くことができる。給料だってきちんともらえる。その意味で、向いていないから路頭に迷うということはない。だから、自分がうまくやっていけるだろうか、みたいな考えは根本のところであまり切実な悩みにはならない。これは病理医に限った話ではなく、医者全般にいえる話なのである。残念ではあるが。

けれども。

ぼくらにちょっぴりでも良心が存在する場合、使命感が存在する場合、抑止力が存在する場合、誰かの悲しい顔が少しでも想像できる場合、ぼくらは、自分の仕事によって誰かが期待値未満の人生を送ってしまう恐怖に身を焦がすことになる。

自分の判断がここで2秒遅かったためにこの人の人生は2か月ほど縮まってしまった、みたいなことが医療の世界ではよく起こる。ほんとうにきつい。もし、ある瞬間患者を担当していた医者が自分以外だったならば、患者の人生は苦痛を伴いつつも2か月伸びたかもしれない。あるいはその瞬間自分を含めて医師がひとりもいなければ、アディショナルタイム的な2か月間は誰も意識しなくて済んだかもしれない。自分がうっかり関わってしまって、期待値を伸ばすフリをして伸ばせなかった、という状況が、シンプルかつ最大のダメージを、患者とその周囲と、おまけに自分自身に叩きつけることになる。

医学生はしばしば、そういう「とっさの判断が他人の人生に影響する」というイベントの多い、少ないで、専門科を選ぶ傾向がある。循環器外科みたいなイチかバチかの仕事はつらい、皮膚科であれば患者は死なないからラクだ、いや逆にラクだと張り合いがない、俺は外傷外科の最前線でばりばり働くほうが性に合っている、いやいや麻酔科だと手術がない日のQOL(クオリティオブ自分のライフ)がよい……など。

でも本当は、どの科もそれほど大した違いはない。これはあくまでぼくの意見であり、従ってぼくは個人的に断言するが、医者である限り、「科がどこであっても患者の人生を思って煩悶することになる」。多い少ないではない。生き死にの違いがあるかもしれないが、しかし、死なないからいいなんて言葉は生命をなめている。とっさの判断とか現場の興奮とか決断の重さの違いが科ごとに違う、というのは医学生が陥りがちな錯覚であり幻想にすぎない。

もしあなたが「科ごとに真剣さは違うだろう」と考えているならば、あなたは所詮、他人の人生をその程度のワクでしか見ていないということだ。そもそも医者に向いていない気もするが、ま、そういう人でも、冒頭述べたように、医者というのはやっていける。君個人の問題としてはまったく問題ない。

向き不向きなんてどうでもいい。「立ち向かう」というのは、自分で相手に正対することで成り立つ言葉である。受け身になって「自分の顔がいまこっちを向いている」とか「今はそっちを向いていない、反対をみている」などといっている場合ではない。足を鳴らせてそちらを向く。ただそれだけのことなのだ。




なお、このタイミングでいちおう書き添えておくと、我々医療者というものは「科ごとの向き・不向き」は重要ではないのだけれども、「自分が一緒に働く人たちとの相性」というのは厳然として存在する。

自分がその科に向いていようが向いていなかろうが、上にいる人間にボコスカに「てめぇ向いてねぇよ」といわれたら、その職場環境は普通につらい。だからまあ、人のいいボスがいる場所を選んだほうがいいぜとぼくは後輩達に告げる。このアドバイスのほうが、あるんだかないんだかわからないその人の「職業適性」なんかよりも、よっぽど将来にわたってその人を救うことになると信じている。ただこの話は今日の本筋とは少しずれている。




さて、というわけで、病理医に向いていない人というのはいない。向けばいいのだ。そちらを。能動的に。ただし、20年、30年と病理診断医として働いていて、もし「成長」をできなかった場合、その人が繊細であればあるほど、「自分は病理医になるべきではなかった」という後悔が精神を滅ぼすことになるだろう。向いていないわけではない。給料だってずっともらえる。誰も別に自分をしかり飛ばしたりはしない。それでも、悔やんで胸をかきむしることになる。

これはぼく個人の意見であり、なんと断言すらはばかられるレベルの話なのでそっと書いておくが、病理医としてやっていく上で重要なのは、医学生とか研修医などというタマゴ段階での向き不向きなどではなく、病理診断医になってから、どれだけ継続的に勉強を続けられるかだ。なってからの方が重要なのだ。そこまでの人生で勉強した量なんて、病理診断医になってからの勉強量と比べたら凱旋門とホチキスの針くらい違う。違わなければいけない。

これは脅しではない。だからまだ迫力が足りないだろう。ここからはさらに脅しのニュアンスをこめることにする。

なにせ、病理医というのは、ほかの医療者たちから日々言われ続けるのだ。

「いいなあ患者に接しないなんて」

「当直しなくていいなんてうらやましい」

「ずっと座って顕微鏡みてればいいなんて最高だね」

もちろんこれらはすべて明確な悪意を秘めた揶揄である。そこらの医者と大して変わらない給料を、そこらの医者よりはるかにラクそうな姿勢・体勢で獲得し続けているぼくには、基本的に敵意が向けられる。寝られない10年目の医者はうらめしそうにいう、「そのしごと、やりがいあるんですか」。肌がぼろぼろになった20年目の医者がすわった目でいう、「その本読んでる時間も給料発生するってのがいいね」。

これを跳ね返すだけの何かが自分の中にないとこの仕事は正直つらい。他者のうらやみ、さげすみをいなして逸らして跳ね返すために、胸の電光掲示板に光らせ続けておかなければいけない一文がある。

「ええ、おかげさまで、脳だけで給料をいただく仕事ですのでね。」

ほかの医療職のみなさまが寝食を惜しんで体力勝負に挑むのと同じ、あるいはそれ以上の時間をかけて、脳を無限に成長させ続ける覚悟が必要なのだ。そうしないと、かえってつらいのである。もちろん、無限といったって、有限の値に無限に近づき続ける漸近線かもしれないのだ今のぼくは。それでも無限に成長しようという気概に違いはないのである。

少なくとも「55まではたらいたらあとは開業してのんびりだな」的な人生設計が頭をかすめるタイプの人間は、病理診断医を長く続けるごとに自責の念にとりまかれることになる。それでどれだけの仕事ができるのだろうかと。自分が病理診断医として胸を張って生きていけるだろうかと。




これだけ書くと「なあんだ、結局、勉強し続けるだけの精神力がない人は病理医に向いていないってことじゃないか。」といわれてしまいがちなのだけれども。

ぼくらはみな、医学部を受ける前に必死で勉強してここに辿り着いたのだということを、忘れてはいけない。

勉強以外の「向き・不向き」をあらためて探すことに比べたら、少なくとも、過去に一度は「勉強は向いているね」と大人達にいいくるめられた時期の記憶がある分、「勉強は向いてますよ」と旗を掲げるくらいなんでもないではないか。

そう、医学生が病理医になる上で向き不向きなどはない。みんな一度は通ってきた道だ。もうすでに、「君はそういう勉強には向いているよ」と認められてきた道だ。

だからなんのことはない。

病理医に向いている・向いていないなどという議論はいらない。ただ勉強し続ける覚悟だけあればいい。ぼくはだから全ての医学生にとって病理診断医はふつうになれる職業であるよと言い続けることになる。