2023年5月15日月曜日

符丁が必要な教育

「Twitterにおけるおじさんの一人称として最適なものは何か教えてくれ」というツイートがRTで回ってきて、それはもちろん「小生」だろうと思って、元ツイのスレッドを開いたら一番上に「小生」があったし、そのツイートをRTした人も直後に「小生」しか思い付かないと書いていて、これはもう「小生」で決まりだなと思ったし、こういうところがツイ仕草として一般市民の感覚からキモくズレていくのだろうなと感じた。


上記の一文がちょうど140文字! ……だったらかっこよかったのだが実際には200字くらいある。ぼくから出力される文章は、そこまでTwitterに最適化されているわけではなかった。よいことである。そこに最適化されてどうする。


背景情報が必要なことばかりを普段から口にしている。Twitterをやっていない人がGoogleで「病理」を検索してこのブログに流れ着いてくる可能性を無視して、Twitterを長年やっていないと読めないような符丁まみれの文章を書いてしまう。

長年かけてじわじわと、今いるポジション、職務、人付き合いによって、ぼくの周りに前提が増えていて、そういうのをまったく知らないところからやってきた人に語りかける言葉が少なくなっている。


長年小学校の先生をやっている人は偉いなあ。

毎年新たな子どもたちがやってきて、4月には「いちから」何かを教える、それをずっとくり返しているのだから本当に偉い。時代に合わせて少しずつ教材をブラッシュアップさせつつ、人として最初に学んでおいたほうがいい話、大人がとっくに「常識」にしてしまった内容を、レベル1から順番に語っていくという仕事。その根気、その職能にあこがれる。ぼくはもう、病理1年目の人に教える言葉を持たない。

先日、プロ野球の吉井理人コーチが書いた本を読んでみた。「最高のコーチは教えない」というので、どういうことかなと思うと、とにかく選手に自分の現状をみずから解析させることを重視しており、コーチが現役時代にうまくいったやり方を一方的に教えるのではだめだというのである。コーチに合ったやりかたがマッチしない選手を潰してしまうからだ。

野球がうまくなるために必要なことの中で、「全員が知っておくといいこと」、すなわちコーチが毎回誰にでも伝えられることが何かあるかというと……それが、「自分が自分をきちんと言語化できる能力」なのだ。それに気づいた吉井コーチはとにかく選手の話を聞く。「今日はなぜうまくいったと思う?」「今日はなぜ打たれてしまったのだと思う?」選手が自分を解析して言葉にするプロセスを大事にしていく。ああ、これはいいことだ、と思った。

しかし吉井コーチもじつは試行錯誤中なのだという(本が出たのは今から5年くらい前)。プロ野球の場合、選手自身にゆっくり気づいて成長してもらっているうちに球団を解雇される、かなり厳しめのサバイバルレースが当たり前なので、あまりに自主性に任せてしまうと育つ前にプロ野球選手を辞めざるを得なくなってしまうからだろう。だからどうしたって、最初に最低限の技術、トレーニング法とか配球の考え方とかそういった部分を、上意下達で教えなければいけないこともある。それはそうだろうなと思う。


そこで思い出したのが小学校教師のことだった。小学校の先生は、たぶんプロ野球のピッチングコーチ以上に、「生徒の自主性に任せてだけいてはだめ」な教育場面をいっぱい経験している。交通ルールであるとか、食事のマナーであるとか、個人が自由にやってしまうと社会で苦労することになる部分も小学校では教えなければいけない。となると、自然と、「大人はこうするのが普通なんだ」という教え方になるはずである。しかしたまにベテランの小学校教師が、「生徒の自主性をすごく尊重している」としか言い様のないムーブを決めてくることがあって、どうやったんだろうといつも不思議に思う。


ぼくもいよいよ年齢的・キャリア的に教える立場だ。しかし相変わらず、「Twitterをやっていなければわからないネタツイ」みたいな感じで、ある程度病理をかじった人でないとおもしろみがわからない知恵みたいなものを語りたくなってしまう。ぼくには小学校の先生はやれないしピッチングコーチも勤まらない、そして、あるいは、病理診断学の講師としてもまだまだぜんぜんだめなのだろうなと肩を落とす。しょうがないじゃないか、ぼくはここまで、自分が病理医になることしか考えてこなかった。どうやったら病理医にすることができるのかなんて、まるで興味がなかった。プロ野球の若いピッチャーや、小学生たちと同じように。