どんな病気だったかというと……。患者は大人なのだけれど、この病気というか病態そのものは、おそらく子どものころからあったのではないか、という話だった。ある臓器に、がんではないのだが不思議な異常があらわれ、なんでこんなことになるのかなといろいろ調べていくうちに、とある珍しい病名が候補として浮上したのである。
その病名を付けるにあたっては、いくつかの根拠が必要だった。そして、「ある臓器」の一部が切り取られ、病理のぼくのもとにやってきた。ぼくはその臓器をつぶさに観察したのだが、はっきり言って、これといった「特殊な病理組織像」が見いだせなかったのである。
だからぼくは正直にこのように書いた。
「ある病気であることを示す所見は見られません。とはいえ、ある病気を否定することも難しいです。ほかの病気かもしれないが、この病気かもしれない。決められません」
これでは何も言っていないのといっしょだ。しかし、結局、この臓器をいくらみても、診断にはたどり着かないのであった。
後日、患者の別の臓器から、さらに検体が採取された。そこには、前回の臓器とはまるで異なる、あきらかな「異常」を見出すことができた。びっくりして、その病名の診断基準を確認し、無事患者の病名は確定したのである。
というわけで、最初に取った臓器Aでは診断が付かなかったが、次に取った臓器Bでなんとか診断に至った。各方面に感謝して、話はこれで終わり……にはならなかった。
先日の病理学会で、たまたまお目にかかったある臓器の大家に、ぼくの診断の話が伝わった。そして、「最初に取ってきた臓器ではやはり診断は難しかったでしょうね」という。患者には申し訳ないが、ぼくはちょっとだけ安心した。ああ、やはり最初に取ったものだけでは診断はできなかったのだな。なにせ、患者は最初の検査で診断がつかなかったために、次にまた別の場所から細胞を取るハメになったわけで。手間もかかったし時間もかかってしまったが、とりあえず最初の判断は間違っていなかったのだなあと思って安心をしたのだ。
しかしその偉い先生は続けた。
「私でも、最初の臓器をみるだけで確定診断はできなかったと思います。しかし……確定はできないけれど、疑うことくらいはできたかもしれない。」
ぼくはびっくりした。
えっ、最初のアレで? そんなばかな。だって、何も、特殊な所見がなかったんですよ。
すると偉い先生は言った。
「いや、それなんですけどね……。ここ、見た目に異常はありますよね。でも、ふつうの病気でこういう異常があったら、ここにさらに、Aという病態が起こっていないとおかしくないですか?」
ぼくはしばらく考えて、文字通り声をあげた。「あっ!」
彼の言っているのはこういうことだ。
ある交通事故現場のことを考えて欲しい。立ち退きを拒んでいた古い定食屋に、軽トラックがつっこんだ。壁は大破。店主はとても悲しんでいるが、それ以上に怒っている。「俺がいつまでも立ち退かないからいやがらせを受けたんだ!」 しかし証拠がない。
運転手は「いやあ……居眠りしちゃいまして」と言っている。
運転手に悪意があることを疑うにしても、証拠がない、ふつうの事故だと言って終わるかどうか。もう一歩踏み込めるかどうか。
たとえば、「車が家に突っ込んでいるのに、ブレーキ痕がなかった」というのはどうだろう。故意の証拠になるだろうか?
いや、ならないだろう。なにせ運転手は寝ていたというのだから。眠っていたらブレーキは踏めない。これは証拠にはならない。
そして、運転手はたしかに、顔をハンドルにぶつけてケガをしていた。だから故意ではないというのだ。
しかし……運転手は「肝心なところにケガしていなかった」。シートベルトが肩に食い込んだときのキズがなかったのだ。これはつまり、運転手が衝突の瞬間に、手で踏ん張ることができたことを示す。さらには、自分がぎりぎりほどよいケガをするくらいに加減したのではないかと思われる。
つまり、「証拠があるかどうか」を探すにあたっては、何かが「ある」ことだけをさがしていてはだめなのだ。そのシチュエーションなら本来あるはずのものが「ない」ことにも目を配らなければいけない。
くだんの偉い先生は言った。「先生、このような変化がある場合、近くには線維化がないとおかしくないですか? 線維化がないのにこんな変化だけが起こっているということが、そもそも異常なのです。こういうことが起こりうるパターンは限られています」
ふぎゃあ。ぼくはのけぞった。偉い先生は続けて、「私がこれを診断したとして、最初の段階ですぐに病名を言えたかというと、それはたぶん無理だったんですけれどね。そこまではっきりした証拠ではありませんから」と言って笑った。本当にそうなのだろうか、それとも気遣ってくださったのだろうかと、ぼくは数日悩んで、さまざまな文献を読んで勉強し、どうやらその先生が言っていたことは別にぼくへの忖度ではなく、本当にそうらしいと気づいてちょっとだけ安堵したのだけれど、「先生、もう少しわかることがありますよ」と言われた瞬間のドキドキは今もなお残っている。病理診断、難しい、奥が深い。