ぼくは30代半ば以降になって本を読む頻度がとても増えたのだけれど、この理由をなんとなく「文字に強くなったから」だと思っていた。しかし、違うね、これはゲームをしなくなったからだったんだ。
たまに人から、「そんなに本ばかり読んでいるのすごいですね、子どものころからずっとそうだったんですか?」などと言われることがあり、「すごくはないですし、子どものころはたいして読んでいませんでしたよ」と答えていたのだけれど、そう、子どものころはファミコンをしていたからやっぱり本は読んでいなかった。ドラえもんやドラゴンボールの単行本を何度も読み直したくらいだ。ゲームというのは目と指と口(ああでもないこうでもないと言う)をまとめてもっていく娯楽だったし、かつてゲームがいた場所に外食もゴルフも旅行も詰めこんでいない今、本を読む時間が多くなるのは必然である。
音に使っている時間は、音以外では補填がきかないので、音同士でやりくりする。20代のころはオルタナやエモコアばかりを聴いていた。今はその時間がたいていポッドキャストになっている。冷静に考えるとこの変化もけっこうエグい。
先日、約25年前に付き合っていた女性とメッセンジャーで雑談をしていたところ、その女性が(実際に自分がなってみると)アラフィフってこんなもんだったかなあ、みたいなことを言う。まあそうだよな、そういうことを言いたくなるよな、と同調する。もう少し具体的にこの同調のメカニズムを述べると、10代や20代の時間を共有していない間柄の人が周りにだんだん増えてくるにつれて、めったに合わない古い知人と話すときはつい「昔の自分が思っていた大人の姿と、自分がいざその段階にたどり着いたときに考えている自分の姿とが一致しない」みたいな話題を(普段言えない分)ここぞとばかりに言いたくなるよな、という点で納得したのである。
25年前も1日は24時間あったはずだが、あの頃のぼくと今のぼくが同じ長さの1日を暮らしていることをうまく実感できない。昔のぼくと今のぼくはまったく一繋がりではなく、途中で宇宙の意志か何かによって新たな記憶を植え付けられていてもわからない。当時、教科書以外の本は何を読んだのだろうかと思って、(ニセモノかもしれない)遠い記憶を探ると、たしか19歳ではじめたホームページに書評を書いていたはずで、そこにはたしか沢木耕太郎、北村薫、宮部みゆき、京極夏彦、馳星周など、いくぶんJ-POP的なものも含めて小説を何度か取り上げたはずだ。しかしあるいは読書量は月1冊にも満たなかったのではないかという気がする。あの頃のぼくは剣道部にいたり、塾や家庭教師でバイトをしたり、大学そばのカネサビルで朝まで酒を飲んだり、そういう非仕事・非勉強・非読書・非音楽的なもので時間をフルに満たしていた。まるで今とは違ったのだ。となれば、当然、20代の自分の目に映る40代なかばの人間というのも、今の自分の周りにいる40代の人間とは違ったクラスタの人でしかないし、ていうか今のぼくだって20代のぼくの周りにはいなかった。今のぼくは20代がうろちょろしている居酒屋には行かないし、剣道もしていないし、バイト先にだっていないのだ。ここ何年も、「20代のぼく」を彷彿とさせるような人間と同席する機会がない。あの頃、20代のぼくと会っていた40代というのはいったいどこにいた誰だったのか。そういう大人達を見て「40代とはこういうものか」と想像していたであろう当時のぼくが、今のぼくを想像することは無理なのだ。アラフィフとはこんなものだったのか、という意外性はつまり、「そんな40代の人間を見たこともないし聞いたこともない」という20代のぼくの叫びによって肯定される。いや、あるいは、ラジオだけはぼくに「40代のぼく」を想像させる可能性はあったのかもしれない。でも当時のぼくの耳はポッドキャストではなくiPodのナンバーガールによって満たされていた。向井秀徳も当時はまだ30代に過ぎなかった。
今の10代、20代は、「中年の遊び場」であるTwitterをたまに見に来てはいるようだし、ぼくがネット上でどういうことを言っているかをぼんやりと目にすることもあるだろう。あくまで偏った40代であるが、そういう姿を見て「ああ、40代とはこういう感じなのか」という仮の映像を本人の中で醸成していく。確信して言えるが、それはあなたの40代ではありえないし、あなたもまた40代になってみれば「へぇ、40代って自分でやってみるとこういうことになるのか」と少なからぬ驚きを得ることになるだろう。そして、あなたがたがぼくを「わかりあえない他人」と思っている以上に、20代のころのぼくは40代のぼくを自分とは思えないはずである。しかし、ラッキーなことに40代のぼくは20代のぼくとコミュニケーションを取ることがかなわない。20代のぼくが40代のぼくとの断絶に心を痛めたりADHDやASD、神経症の器質を悪化させたりするリスクもなく、すべては一方的に未来にいるほうのぼくが引き受けてしまえばそれでなんとかなってしまう。大人として当然のことを粛々とこなす。