次の美容室でパーマかけてもらおうと思って、前回トップを少し長めに残してもらっていたのに、いざ予約する段になってふつうにカットだけの申し込みをしてしまい、パーマの予定は先延ばしになった。
こういううっかりがなくならない。
もはやパーマをかけようがかけなかろうが、中年人生の何かが大きく動くわけではないので、これをひとつ忘れたところで、さほどダメージがあるわけでもないし、ぶっちゃけどうでもいいのだけれど、やろうと思っていたことをすっかり忘れたという事実に軽くへこむことを無理に「へこむことないよ!」と矯正する必要もない。そんな自己啓発本とかnoteの有料マガジンみたいな心持ちでなんでもポジティブに変換するのもどうかと思う。うっかりしたらへこめばいい。そこを抑制しなくてもいい。
シンプルな予定はすっ飛ばしてしまう。
逆に、込み入った案件はすっ飛ばせない。
というか、すっ飛ばさなかった(無事に行動した)場合の原理は、どんどん複雑化している。「なぜ自分はこうするのか」を説明できない。やりたいこと、やりたくないこと、「なぜ?」と5回連続で自分に尋ねようと思うと、せいぜい2、3回目くらいで「いや、別に理由はないんだよなあ」になることも増えた。行動するに至る経路が毎回長い。だらだらと迂曲している。だから「why」も「how」も辿れない。水流に流されて、自分でときどき腕で水をかいたりしているうちに、どこかのほとりにいつのまにかたどり着いており、周囲を見渡すとけもの道が一本あって、ほかにさほどの選択肢もないので、とりあえず道だと思える方角に歩いてゆく、みたいな感じ。
そういうのに慣れてしまったから、逆に(逆の逆に)、理由から行動までがシンプルな行動を忘れてしまうのだと思う。
「トップの髪の毛をあまり短くしないように切ってもらって、次にパーマをかける、だから次回の美容室の予約は2時間枠でとる」くらいだとシンプルすぎて広がりがないので脳がおざなりにしてしまうんだろう。
「まだ数日はシャンプーが残っているけれどコンディショナーが先に切れたから、帰りにドラッグストアに寄ってシャンプーとコンディショナーの両方を買う」くらいは百発百中で忘れる。どうでもいい、と感じてしまう。往々にして帰宅直後に思い出す。脱いだばかりのジャケットをまた羽織る。
どうでもいいのだ、そんなシンプルなものわすれ。ただ、へこむことはへこむ。
「中動態」を用いて人間の行動を言い表す哲学の手さばきに感動したのは何年前のことだったか。たしかに今なお腑に落ちる。自分がまさに能動でも受動でもない部分で動いているのだということを、他人からいただいた言葉で納得する。ただし、その納得も、おそらくは近似的で姑息的な言語化のたまものであって、ほんとうは、中動態という理解以外にも解釈のしようはあるのだろうな、みたいなことを思う。
たとえば、思考はときおり「チンダル現象」を示しているのではないかと感じることがある。光の一部が散乱したものを見て、ああ、あの光は今こちらからあちらに向かって差し込んでいるのだな、とぼくらの目は判断できる。それと同じように、誰かの思考が何かにぶつかって散乱したものをぼくらは見て、ああ、あの人は今、あそこを照らそうとしているのだな、と端から考え、勝手にその人の行動原理を一本道で予測する。しかし本当は、思ったより複雑な散乱が生じていて、それによって元の光のおおわくの筋道が可視化されているように思えるけれど、では散乱した光は光ではないのか? という話。そも散乱によって部屋全体が明るくなっているのでは? という話。
一本道を軽視すらしている自分の脳にすこしへこむ。でも、そうなってしまった。そういう場所にたどり着いてしまった。「why」も「how」もわからない。ほかのWもじつはぜんぶわからないのだけれど。