2019年4月4日木曜日

ドリフの大爆笑と同じリズム

車輪の再発明という言葉をはじめて知った。

Wikipediaにも項目がある(大して長い記事ではない。興味があったらググってみるといい)。

「すでに発明されており、広く受け入れられているもののやり方や作り方を(意図的に、あるいは気づかずに)無視して、先人の業績に頼らずにいちから自分で作ろうとすること」




たとえばぼくが今、「タイヤという便利なものを発明しました!」とツイートしたら、「は?」となるだろう。

タイヤなんてもうあるでしょ、と笑われるだろう。

でも、ぼくはそこで突っ張る。

「似たようなことを考える人はいるものですね、でもこれはぼくが一から考えたものです。たとえばタイヤといっても単なるリングではないんですよ、衝撃を吸収するためにゴムで覆っているのです! しかも普通のタイヤは中に空気を入れているそうですが(先ほどはじめて知りました、偶然ですね)、今後ぼくは、空気以外の媒質を入れていろいろ試してみようと思うんです。空気を入れたタイヤよりももっといいものができるかもしれないですよ!」

……世間はあきれる。タイヤメーカーも肩を落とす。

「そんなこととっくに試したよ……」

「タイヤの中身が空気なのにはそれなりの理由があるだろうに……」

「ていうか空気以外のものを充填したタイヤもすでにあるけどな……」

ぼくはあくまで、我を張り続ける。

「もう一度ぼくが試すことにきっと大きな意味がある。他の人がダメだと思ったことでも、ぼくがやればいい結果が出るかもしれない!」

「昔試してダメだったものでも、今の技術を使えば、再発明できるかもしれない!」

これでうまく行くことがないとはいえない。

けれども、もう少し先人のやり方を「勉強」してからのほうが、効率はいいだろうな。




車輪といいながらタイヤの話にしてしまったが、ぼく、このパターン、まじでめちゃくちゃ見る。




「旧来のメディアがやっている情報発信はクソだ! ぼくならもっとうまくやる」といいながら、インタビュー記事を作って、いろいろ苦労している人がいた。

その苦闘の内容の一部は、きっと、各種のオールドメディア内ではとっくにやりつくされていた部分である。

腹を割って経験をわけてもらえば、わざわざ同じことを違う場所で試さなくてよかったかもしれない。




歴史を知り、他者の思考を知ることが、我々の役に立つかどうか。

これはもう、あきらかに、役に立つ。

文学とか芸術、社会、政治だけの話ではないのだ。

科学においても、歴史を学ぶと、効率が上がる。

ぼくらが今「はじめて」思い付いたことは、歴史の中で何度もほかの人によって「はじめて」思い付かれている。そういうものだ。

先人がそれにどう取り組んだのか。

全部は解けなかったとしても、部分的に求められた解があるかどうか。

そういったことを、ぼくらは、歴史から学ぶことができる。




水平方向にどこまでもカッ飛んで行けるSNSでは、時間軸方向の掘り下げが難しくなる場合がある。情報に鮮度があり、古い情報はかなり選別されて、大半が消えていく世界だからだ。

横を広く見渡して、自分しか考え付いていないアイディアがあるとか、自分だけが見とがめたポイントを鋭く突こうとか、そういったことを考えるのは、わりとラクにできる。

けれどもその着眼点は、歴史の中で、実は繰り返されてきたものではなかったか?

ぼくが今「新規に」やっていると思っている行動は、実は「車輪の再発明」ではないか?