2019年4月25日木曜日

病理の話(318) 再度の検査が必要ですの場合

胃カメラや大腸カメラをやって、何かがみつかって、ドクターが言う。

「ちょっとつまんで検査に出しますね。」

乳腺をエコーで見ているドクターがあなたに語りかける。

「ここに針を刺して細胞を検査します。」

虫垂炎で虫垂をとった人に。

胆石症で胆のうをとった人に。

ドクターは説明をする、「とった臓器は病理に出します。」



人間の体の中からとられたモノが大きかろうが小さかろうが、とにかくとったモノは病理に回される。

そこでぼくらは待ち構えている。



さて検査にはそれなりの時間がかかる。

有機溶剤での処理をしたり、プレパラートに特殊な薬液で色を付けたりして、病理医が細胞をみるための準備をするのに、小さい検体であっても1日、大きな手術採取材料だと数日かかってしまう。

だから患者は検査の結果を知らされないまま、いったん家に帰されたり、病棟で不安な日々を過ごしたりする。




そして、病理診断レポートが返ってくる。

(どうでもいいけど書籍出版社の校正はレポートを「リポート」と修正しがちだが、個人的には病理報告書はリポートではなくレポートである。大半の病理医はレポートと発音しているはずだ。そもそも、ポケモンのセーブはレポートだし、Official髭男dismのアルバム名だってレポート。ぼくは一生レポートと言うだろう。リポートと直されるとむずむずする。閑話休題)

「がんではない。炎症。」

「がんだ。程度はこれくらい。性質はこうだ。」

「○○という病気の一部と考えられる。」

結果はさまざまだ。

主治医も、患者も、病理医が下した「病理診断」をみて、いささか検査というには複雑な文章を読んで、一喜一憂し、今後の計画を立てる。




悩ましいのは、以下のような診断が返ってくるときだ。

「わからない。」

おまけに、こう書いてあることもある。

「もう一度細胞をとってください。」「再検してください。」




患者も主治医もうんざりする。またあのカメラを飲まなければいけないのか。また針を刺さなければいけないのか……。

なぜだ。

細胞をとって見てもわからない、それを、もう一度とったからといって、今度はわかるものなのだろうか?





というわけで今日は「病理医がわからないという理由」や、「もう一度検査をする意味」について少し考えてみる。





たとえば、がんかもしれない部分をつまんで検査に出しても、がん細胞がわかりにくいことがある。

これは、がん細胞が「どうやってそこに存在しているか」によって決まる。

ぼくがいつもやるように、がん細胞をヤクザに例えよう。

ヤクザがアジトに集結しているとする。右を見ても左を見てもヤクザ。ヤクザ集団。おしくらヤクザ。

この一部分をつまんでとってくる。こういうときはどこを「つまんでも」ヤクザであろう。ヤクザ取り放題だ。

けれども、がん細胞はいつもアジトに集結しているわけではない。

しょっちゅう使う例え話で恐縮だが、シブヤの交差点のような雑踏に、15人のヤクザを放り込んでみよう。

すぐに数百人の善良な人々にまぎれてわからなくなるだろう。

交差点の一部を「つまんで」とってくる。さあそこにヤクザは含まれているだろうか?




「含まれていないことがある」。

含まれていなければ、病理医は診断できない。



再度検査をするときに大事なのは、「多めに細胞を採取する」とか、「広めに細胞を採取する」ことだ。

あまり大きく細胞をこそげとると、血が出たりするから、ここにはさじ加減が必要。なかなかたいへんである。




ほかにも。



ヤクザがそり込みリーゼント、全身にいれずみ、両手に拳銃とドスを持っていたら、たった一人のヤクザがシブヤの交差点にいたとしても、すぐにヤクザだとわかる。

けれどもヤクザの子分がリクスーで全身を決めており、頭はゆるふわニュアンスのワックスでアシメに整えていて(ただし黒髪にはしていて)、手には青山のセールで売っているようなブリーフケースを持って、シブヤの交差点にいたらどうだろう。

曜日によっては、「なんでここに就活生が?」という違和感はあるかもしれないが……。

少なくともヤクザだとは断定できないに違いない。




このように、「見た目のかけはなれが少ないタイプの病気」は、一度の検査ではなかなか悪人と断定できないことがある。

この場合も、何度か検査をやりなおすことで情報を集めると、診断の役に立つ。ある日はただ雑踏に立っていただけの就活生風の男が、次の日には雑踏でおっさんに肩をぶつけて怒号をはいていたら、あっ、何かおかしい、とわかるだろう。挙動をみるためには複数回の観察が有用である。





「細胞をみればぴたりと当たる」というのは実は嘘なのだ。

みるにしても、いろいろな見方がある。

ぱっと見でおかしいとわかる「かけはなれ」があればいいけれど、周囲の状況を考えてよくよく注意しないと気づかない「かけはなれ」もある。

普通の交差点に自動車があってもおかしくはないだろう。

でも、週末に歩行者天国となる場所に車がいたら異常であろう。

この場合、「車自体」をいくら見ても、異常とは気づけない。

「車の存在する場所とタイミング」がおかしいからこそ、異常とわかるのである。

これといっしょで、細胞をみる検査というのは、単に細胞だけを見ていてわかるものではない。

周囲との関係、さらにはその患者が抱えている背景をきちんと判断しないと、異常には気づけない。





というわけで「病理の再検査」が指示された人へ……。

お手数をおかけしてすみません。正しい診断のために、なにとぞよろしくお願いします。なんとか、診断を決められるよう、がんばります。