2019年4月9日火曜日

病理の話(312) 病気の定義と欠陥だらけのぼくら

実は人間の体には重大な欠陥がある。

それは、人体と酸素の関係を見てみれば、すぐにわかる。




まず、酸素を手に入れるためには、口もしくは鼻という、たいしたサイズではない穴から空気を吸引しなければいけない。このとき、横隔膜や胸の壁を外側にむけてググッと開くことで、胸の中を陰圧にし、空気を流れ込ませる。

ポンプとかないのだ。

ふべんである。陰圧で吸引するってどれだけ原始的なのか。

おまけに、酸素だけを選り分けて取り込む機構もついていない。

空気ごと吸わないといけない。

窒素やら二酸化炭素やら、いろんな分子が混ざった空気中から酸素だけをピックアップするのは、肺胞という「肺の一番奥」ではじめて行われる。

最初に口の辺りで分けておけばいいじゃないか。まったく非効率だ。

さらに、口や鼻から水が流れ込むと大変なことになる。

フィルターくらいあればいいのに。そういったものはもちろんない。

極めつけとして、人体はとても「燃費が悪い」ので、8分とか10分というあいだ、酸素が手に入らないと、途端に大事なところがダメージを負ってしまう。

特に一番重大な脳が真っ先にやられる。

こんな酷い話はないだろう。

関ヶ原の合戦で徳川家康が最初に死んでしまうようなものではないか。もう少しほかに、先に死ぬべき人がいるだろうに。




すなわち……。

今ちょっと語っただけでも、人体は重大な欠陥を抱えていることがありありとわかる。

欠陥1: 酸素の集め方へたすぎ

欠陥2: 酸素を集める場所もろすぎ

欠陥3: 酸素に頼りすぎ

欠陥4: もろすぎ




これらの欠陥は、即座に、「生命の危機」に直結する。




さあ、この欠陥を、あなたは、「病(やまい)」と呼ぶか?




呼ばないのである。

「だって、みんなこうだから。」

誰もが等しく抱えた欠陥は、もはや、欠陥とは呼ばない。

呼んでもいいのかもしれないけれど、あまり利用価値がない。





おわかりだろうか。

病気の定義というのは、「欠陥であること」とは関係ない。

そもそも生命は欠陥を多く抱えている。欠陥というよりウィークポイントかな。

そういったものをいちいち「病気です」と定義しては話が進まないのだ。





病の理を考えていると、こういう、「定義」みたいなものも気になり始める。

「老化」は病気だろうか、みたいなことも考える。

すると、思考の果てに、「がんってほんとに病気なのかな。がんは老化とはどう違うのかな」なんてことを考えなければいけなくなる。

まあがんは病気でいいんだけど……。

この問い、実は、あなたが思っている以上に奥深く、難解だ。ちょっと禅の公案みたいな雰囲気すら纏っている。





がんがなぜ病気なのかについては、うーん、そうだな。

またいずれ語ろう。群像劇の話は時間をかけて語らないと、大河ドラマにならない。